その後に艇を引き揚げた、日本海軍の記録的に明記するところなのです」
 風はなぎ、暁は去って、朝|靄《もや》も切れはじめた。犬射は、感慨ぶかげな口調を、明けきった海に投げつづける。
「艇内は、その前後に蓄電の量が尽きてしまい、吾々が何より心理的に懼《おそ》れていた、あの怖《おそ》ろしい暗黒が始まったのです。すると、それから二時間ばかりたつとがたりと艇体が揺れ、それなり何処へやら、動いて行くような気配が感ぜられました。
 そうしてわれわれは奇蹟的にも救われたのですが……もともと沈没の原因は、艇の舳を蟹網に突き入れたからで、もちろん引揚げと同時に、水面へ浮び出たことは云うまでもないのであります。
 ところが、その暗黒のさなかに、四人がとんでもない過失をおかしてしまったのです。
 と云うのは、寒さに耐えられず嚥《の》んだ酒精《アルコール》というのが木精《メチール》まじりだったのですから、せっかく引き揚げられたにもかかわらずあの暗黒を最後に、吾々は光の恵みから永遠に遠ざけられてしまったのでした。
 あの燃え上がるような歓喜は、艙蓋《ハッチ》が開かれると同時に、跡方もなく砕け散ってしまいました。もともと自分から招いた過失であるとはいえ、私たちは第二の人生を、光の褪せた晦冥《わだつみ》の中から踏み出さねばならなくなったのです。
 こうして『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』は泛《うか》び、同時に、吾々に関する部分だけは終りを告げるのですが、一方『鷹の城』自身は、それからもなおも数奇を極めた変転を繰り返してゆきました。と云うのは、引揚げ後内火艇に繋がれて航行の途中、今度は宗谷海峡で、引網の切断が因《もと》から沈没してしまったのです。
 そして、三度《みたび》水面に浮んだのは御承知のとおり、夫人の懇請で試みた、船長八住の引揚げ作業でした。
 しかし、上述した二回の椿事によって『鷹の城』の悪運が、すでに尽きたことは疑うべくもありません。
 ただ願わくば、過ぎし悪夢の回想が、のちの怖れを拭い、船長の新しい事業に幸あらんことを。そうして、故フォン・エッセン男爵の霊の上に、安らかな眠りあらんことを……」

      三、濃緑の海底へ

 艇長フォン・エッセン男の死体が消失した、しかも蒼海《あおうみ》の底で、密閉した装甲の中で――この千古の疑惑は、再び新しい魅力を具えて一同のうえにひろがった。
 朝風の和やかな気動が、復六の縮毛《ちぢれげ》をなぶるように揺すっていたが、彼は思案げに手を揉《も》み合せるのみで、再びあの微笑が頬に泛《うか》んではこなかった。
 そうして、犬射復六が座に戻ると、今度は一人の老人が、道者杖《しるべづえ》をついて向うの列から抜け出てきた。
 その老人は、もちろん追放された復辟《ふくへき》派の一人で、長い立派な髯に、黄色い大きな禿頭をした男だったが、その口からは、艇長死体の消失をさらに紛糾させ、百花千|瓣《べん》の謎と化してしまうような事実が吐かれていった。
「儂《わし》は、王立《ロイヤル》カリンティアン快走艇《ヨット》倶楽部《くらぶ》員の一人として、かつてフォン・エッセン男爵に面接の栄を得たものでありますが、儂ですらも、これまではさまざまな浮説に惑わされ、艇長の死を容易に信ずることができなかったのでした。
 それが、今や雲散霧消したことは、なにより墺太利《オーストリヤ》海軍建設以来最初の英雄であるところの、フォン・エッセン閣下のため祝福さるべきであろうと信じます。
 けれども、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』そのものは、きわめて初期の沿岸艇でありまして、おそらく艇長のような、鬼神に等しい魔力を具えた人物でない限りは、それによって、大洋を横行するなどは絶対不可能に違いないのです。だが儂は、あのおり『鷹の城』の脱出を耳にしたとき、ふと暗い迷信的な考えに圧せられました。
 と云うのは、元来あの艇は、ゲルマニア型として墺太利帝国最初の潜航艇だったのですが、その中膨れのした船体を御覧になって、これはキムブルガーの唇([#ここから割り注]ハプスブルグ家代々の唇の特徴[#ここで割り注終わり])じゃ――と陛下《へいか》が愛《め》でられたほどに由緒あるもの――それが沿岸警備にもつかず、塗料の剥げた船体を軍港の片隅に曝《さ》らしていたのは何が故でしょうか。
 それは、シュテッヘ大尉の消失――そのトリエステ軍港の神秘が、そもそもの原因だったのです。
 一九一四年開戦瞬前に起って、さしも剛毅《ごうき》な海兵どもを慄《ふる》え上がらせたというその不思議な出来事は、いま耳にした艇長屍体の消失と、生死こそ異なれ、まったく軌道を一つにしているではありませんか。
 夫人は御承知でしょうが、シュテッヘ大尉は、フォン・エッセン閣下の莫逆《ばくぎゃく》の友でありまして、同じ快
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