フと云えば、さしあたり艇長の油絵をさておいて、他に何がありましょうか。
夫人《おくさん》、貴女は画像の唇を、筋なりに切りさいて、その間にこの手紙を差し込んで置いたのです。そして、あの美しい唇が膨れて、顔の階調が破壊されるのを、貴女は何よりも、怖れていたのでした」
そうして語られる夢の蠱惑《こわく》は、ウルリーケの上で、しだいと強烈なものになっていったが、やがて、その悩ましさに耐えやらず叫んだ。
「貴方は、私が覆うていたものを、残らず剥ぎ取っておしまいになりましたわね。それでは、私をテオバルトに遇わせて下さいましな。法水さん、それにはいったい、何処へ参ったらよろしいのでしょうか」
「ともかく、この場所においで下さい。いま、すぐに連れてまいりましょう」
と異様な言葉を残して、法水は隣室に去ったが、やがて連れて来たその人を見ると、二人はアッと叫んで棒立ちになってしまった――それが人もあろうに、ヴィデだったからである。
しかし法水は、力を罩《こ》めて彼に云った。
「フォン・エッセン男爵、もう宜《い》い加減に、その黒眼鏡を除《はず》されたら、いかがですかな。貴方が、遭難の夜ヴィデを殺したという事も、三人に木精《メチール》をあてがって盲目《めくら》にし、それなりヴィデになり済ましたという事も、また、妻を奪った八住を殺したばかりでなく、娘の朝枝までも手にかけようとした事も――ハハハハ、あのまんまと仕組んだ屍体消失の仕掛《からくり》でさえ、僕の眼だけは、あざむくことができなかったのです。貴方が、髪を洗って、傷や腫物《はれもの》の跡を埋め、またしばらく、過マンガン酸加里で洗面さえしなければ、再び旧《もと》の美しい、アドリアチックの英雄に戻るでしょうからね」
「な、なにを云う……」
とヴィデはドギマギしながらも、嘲るように、
「僕がフォン・エッセンだとは――莫迦《ばか》らしい、いったいどこを押せばそんな音が出るのです。すると貴方は、八住を刺した兇器を、僕がどこへ隠したと云われますか」
「なにも、あの流動体には、隠す必要なんてないじゃありませんか。しばらく貴方は、それを傷口の中に、隠しておいたのでしょう。そして、後になって、朝枝と二人の盲人といっしょに再び艇内に入ると、そこで眼が見える貴方は、屍体を俯向《うつむ》けにしました。すると、あの流血と同時に、兇器はしだいに凝血の間を縫って、やがてかなりの後に流れ出ました。ところが、その附近には、砕けた検圧計の水銀が飛び散っていた……」
「水銀……」
検事が思わず反問すると、法水は、その魔法のような兇器を明らかにした。
「そうなんだ支倉君、まさにその水銀なんだよ。ところで、潜航艇に使う液体空気の中へ、水銀を漬けておくと、それが飴状になるので、何かの先に丸い槍形を作り付けることができるのだ。そうして、さらに冷却すると、いわゆる水銀槌《マーキュリース・ハムマー》と呼ばれて、銀色をした鋼《はがね》のような硬度に変ってしまう。だから、それが八住の体内で、体温のために軟らかくなるから、当然先端が丸くなって、創道の両端が異なるという、不可解な兇器が聯想されてくるのだ。だが支倉君、君はあの時八住が、どうして悲鳴を上げなかったか、理由を知っているかね」
と云って、検事が再び混乱するのを見て、法水は事務的に説きだしたが、
「いや、悲鳴を上げなかったというよりも、叫んでも聴えなかったと訂正しておこう。やはり、フォン・エッセン別名《エーリアス》ヴィデ氏は、遭難の夜と同じく、間歇跛行症を利用したのだ。その時発作が起ったので、八住と犬射の間に割り込んだから、はしなくその手に触れた、犬射が驚かされてしまった。そして夫人に急を告げるやらの騒響《ざわめき》の間に、悠々と八住を料理してしまったんだ」
と云って、ヴィデに憫れむような眼差を馳せた。
「ああ|偶像の黄昏《ゲッツェン・デムメルング》――僕は貴方を見て、一つの生きた人間の詩を感じましたよ。生命に対する執着・流浪愛憎。ですが男爵、ニイチェの中にこんな言葉がありましたね――時の選択を誤れる死は、怯惰《きょうだ》な死である――と」
「よろしい、僕は誇らしげな死につきましょう」
とヴィデは、彼の眼前――闇中にそそり立っている超人の姿が、かくも高いのに嘆息したが、
「あの悪鬼フォン・エッセンを捕えるか、それとも、自分の人生を修正するかです。僕は今夜一人で、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』の中に入りますよ」
と云い捨てて、この室《へや》を出て行ったが、その足取りは、盲人《めくら》にしてはたしか過ぎると思われるほどだった。
ところがその翌日、早朝乗組員の一人が、背後から心臓を貫かれて、紅《あけ》に染まっているヴィデの屍体を発見した。
法水が赴いた頃には、ヴィデの死体は陸《おか
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