轣A滑り落ちた。
「で、最初にそれが、艇長の発作を死と誤らせました。なぜなら、元来その病は、上肢《て》にも下肢《あし》にも、どちらにも片側だけに起るもので、体温は死温に等しくなり、また、脈は血管硬化のために、触れても感じないというほど、微弱になってしまうのです。
艇長が、その発作を利用して、死を装ったことは、あの場合すこぶる賢明な策だったでしょうが、そうして跛行《びっこ》を引きつつ発射管室の方に歩んで行ったのを、僕らは、跛行者《びっこ》のシュテッヘと早合点してしまったのです。
またそうなると、あの暗黒世界の中に、しんしんと光が差し込んでくるのです。
ふと僕は、その後の艇長に、世にも奇異《ふしぎ》な生活を描き出すことができました。まったく結果だけを見たら、それが、あのまたとない一人三役――ねえ夫人《おくさん》、貴女はたぶん、それを御存知ないのでしょうね」
「いいえ、その病だけは、いかにも真実でも、……現在のテオバルトは違いますわ。あの維納《ウイン》の鉄仮面――ヘルマンスコーゲルの丘に幽閉されている囚人が、実はそうなのでございます」
とウルリーケは必死に叫んで、内心の秘密を吐き尽してしまったかに思われた。が、法水は優しげに首を振り、衣袋《ポケット》から封筒のようなものを取り出した。
その刹那、ウルリーケの全身からは、感覚がことごとく失せ切って、ただうっとりと、夢見るように法水の朗読を聴き入っていた――その内容というのは、はたして何であったろうか。
――そうして守衛長が私を案内して、いくつか数限りない望楼の階段を上って行きました。
それも、私が英人医師であるからでしょうが、やがて階段が尽きると、廊下の突き当りには美しい室《へや》がありました。
そして、その中には、見るも異風な姿をした人物が、一人ニョッキリと突っ立っているのでした。その人物は、フォールスタッフの道化面を冠っていて、身長は六|呎《フィート》以上、着衣はやはり、我々と異ならないものを、身につけておりました。
ところが、腰を見ると、そこには頑丈な鎖輪《ケッテンリング》が結びつけられてあるのです。
もちろん会話などは、片言《かたこと》一つ語るのを許されません。
それから、診察を始めたのでしたが、それには、バスチーユの鉄仮面を見た、マルソラン医師が憶い出されたように、やはり最初は、面の唇から突き出された舌を見たのでした。
そうして、全身の診察が終ると、再び叔父のフォン・ビューローの許に連れ戻されましたが、その時不用意にも、私は患者の姓名を訊ねてしまったのです。
すると叔父は、卓子《テーブル》をガンと叩いて、「お前は、あの扉《ドア》の合鍵でも欲しいのか」と呶鳴《どな》りましたが、まもなく顔色を柔らげて、「ではパット、あの馬鹿者《イディオット》については、これだけのことを云っておこう。さる侯爵《マルキス》だ――とね」と言葉少なに云うのでした。
しかし、お訊ねにかかわる羅針盤の文身《いれずみ》は、隈《くま》なく捜したのでしたが、ついに発見することなく終ってしまいました。
そこで私は、明白な結論を述べることができます――あの囚人は、たとえいかなる浮説に包まれていようと、絶対に、友、フォン・エッセン男爵ではない――と。
その書信は、ウルリーケの知人である、英人医師のバーシー・クライドから送られたものだが、かえって内容よりも、それがいかなる径路を経て、法水の手に入ったものか、検事は不審を覚えずにはいられなかった。
法水は、続いてウルリーケに向い、それを掘り出した、不思議な神経を明らかにした。
「実を云いますと、これを手に入れたのは、夢判断のおかげなのです。いつぞや『ニーベルンゲン譚詩《リード》』の中に、貴女は御自分の夢をお書きになりました。ところが、その夢の世界には、すでに無意識となった、一つの忌怖感が描かれているのです。
で、夢の象徴化変形化のことは御承知でしょうが、また、一つの言語一つの思想が、まるで洒落《しゃれ》のような形で現われることもあるのです。
そこで、菩提樹《リンデン》の葉がチューリップの上に落ちる――という一句を、僕は、チューリップすなわち Two Lips《テウ・リップ》(二つの唇)と解釈しました。つまり、何かの唇の中に、貴女は葉のように薄いものを差し込んで置いたからでしょう。それから、撫子《カーネーション》の垂れ下がるほど巨《おお》いなる瓣《はなびら》――というところは、第一、撫子《カーネーション》には肉化《インカーネーション》の意味もあり、また、巨きな瓣を取り去ろうとするがなし得ない――というところは、その肉化した瓣が、膨れるのを懼《おそ》れていたからなんです。
そこで、唇に何かを挟んで、それが膨れるのに懸念を感じるようなも
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