「出したように雨の滴が落ちてくる。
 が、その時からシュテッヘは、すでに浮説中の人物ではなくなってしまった。あの黒々とした姿を、「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」の中に現わした以上、彼の生存は、もはや否定し得べくもなかったのであろう。
 法水は莨《たばこ》を口から離して、静かに噛むような調子で云った。
「事によると、思い過ごしかもしれないがね。どうやら僕には、毒殺者のもう一人が、ヴィデではないかと思われるのだよ。いまもあの男は、艇内に秘密の扉《ドア》がある――などとほざいたんだがすぐに彼自身で、それを嘘だと告白しているのだ」
「嘘……あの俗物が、どうして冗談じゃないぜ」
 と検事は、いっこうに解《げ》せぬ面持だったが、法水は卓上に三つの記号を書いて相手を見た。
「だが問題というのは、あの男が気動を感じたという、貯蔵庫《ビム》にあるのだ。ところで、ヴィデの大言壮語の中に、ムーンの訓盲字という言葉があったっけね。その、ムーンの文字なんだよ。あの法式の欠点というのは、左から辿っていって次の行になると、今度は逆に、その下の右端から始めるにある。つまり、馴れないうちは、一つの字に二つの重複した記号を感ずるからなんだが、あの時ヴィデの右手には、そっくりその字を読む際と同じ、運動が現われていたのだ。そうすると支倉君、Bim《ビム》([#ムーンの文字「Bim」(fig43656_03.png)入る])の逆を、もしヴィデの真意とすれば、それが Lie《ライ》([#ムーンの文字「Lie」(fig43656_04.png)入る])嘘になるじゃないか。つまり、問わず語らずのうちに、ウルリーケを陥れようとした、邪《よこし》まな心を曝露してしまったのだ」
「なるほど、ウルリーケはフォン・エッセンの妻だったのだ。しかし、艇長のために盲目《めくら》とまでなった事を思えば、おそらくあの夜の毒殺だけでは、飽き足らなかったかもしれんよ」
 と検事は、ようやく判ったような顔で呟いた。
 ヴィデ――その一つの名をようやく捜り当てたいまは、ただ、シュテッヘの上陸を待つのみとなった。
 そして、灯を消した闇の中で、二人は凝《じ》っと神経を磨ぎ澄まし、何か一つでも物音さえあればと待ち構えていたが、そのうち夜の刻みは尽きて、まさに力の罩《こ》もった響が、五つ、時計から発せられたが、その刹那《せつな》、潮鳴りも窓硝子のはためきも、地上にありとあらゆるいっさいのものが、停止したように思われた。
 しかし、二人の面前では、その朝何事も起らなかったかのように見えたが、なお念のために、家族の寝間を覗き歩くうち、ふと朝枝の室の扉《ドア》が、開かれているのに気がついた。
 内部《なか》を覗くと、瞬間二人の心臓が凍りついてしまった。
 そこの寝台《ベッド》の上には、蝋色をした朝枝の身体が、呼吸もなく、長々と横たわっていたからである。

      三、海底の花園

 しかし、朝枝はまもなく蘇生したが、それは酷たらしくも、頸《くび》を絞められて、窒息していたのである。
 しかも、なお驚くべき事には、その扉《ドア》は、前夜の就寝の際に法水が鍵を下して、いまもその鍵は彼の手の中に固く握られているのであるが、それにもかかわらず、あの不思議な風は音もなく通り過ぎてしまった。
 そうして、目されていたヴィデが襲われず、朝枝が犠牲になった事は、法水の観念に一つの転機をもたらした。
 彼はウルリーケを招いて、さっそくに切り出したものがあった。
「またまた、菩提樹《リンデン》の葉と十字形《クロスレット》なんですが、僕は今になって、ようやく貴女の真意を知ることができました。そして、今まではシュテッヘという名で怖れられていた悪鬼に、いよいよ改名の機が迫ったのです。ねえ夫人《おくさん》、現に、今も朝枝の頸を絞めたものは、シュテッヘではなく、フォン・エッセン艇長だったのです」
「何をおっしゃるんです」
 とウルリーケは屹然《きっ》と法水を見据えたが、検事はその一言で、木偶《でく》のように硬くなってしまった――なぜなら、彼の云うのがもし真実だとすれば、あれほど厳然たる艇長の死が、覆《くつがえ》されねばならないからである。
 法水は、躊《ためら》わず云いつづけた。
「ところで、いつぞやは、それと快走艇《ヨット》旗との符合に、僕らはさんざん悩まされたものです。しかし、それも今となると、偶然にしては、あまりに念入りな悪戯でしたね。貴女がそうして、ジーグフリードの弱点を暗示した理由には、ただ単に、そういっただけの意味しかなかったのです。つまり、艇長には、固有の発作があったので、たしか僕は、それが間歇《かんけつ》跛行《はこう》症だと思うのですが……」
 その刹那、ウルリーケの顔が、ビリリと痙攣して、細巻が、華奢《きゃしゃ》な指の間か
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