汲ーられました。寝台《ベッド》の上から、左手が妙にグッタリとした形で垂れ下がっているので、触《さわ》ってみると、すでに脈は尽き、氷のように冷たくなっていたのです。
それから始まった闇黒の中で、吾々は、眼が醒めると絶えず酒精《アルコール》を嚥《の》んで、うつらうつらと死に向って歩みはじめました。ところで、これは暗合かもしれませんけど、今度の事件が、それと同じなんですから、妙じゃありませんか。隣りにいる八住が、妙な音で咽喉《のど》を鳴らしたので、これはと思って手頸《てくび》を握りました。すると、それもやはり艇長と同じだったので、急いで夫人に急を告げたというわけなんです」
「いや、大変参考になりました」
法水は犬射に軽く会釈したが、今度はヴィデを呼んで、別の問いを発した。
「ところで、八住が殺された際に、貴方だけは椅子に落着いていて、動かなかったそうでしたね」
「無論そうなりましょうとも」
とヴィデは、黒眼鏡をガクンと揺すって、傷痕だらけの物凄い顔を、法水に向けた。
「僕は既《とう》から、この事件の起るのが予期されていたのです。なぜなら、遭難の夜には、吾々四人を前に、屍体の消失というありうべからざる現象が起ったではありませんか。そして、今日もまた、同じ艇内で同じ四人が集まった――とすると、そこに何事か起らずにはいないでしょう。しかしそのうち一人が欠けて、吾々はようやく正常な世界に戻ることができたのです……」
となおもヴィデが、奇異《ふしぎ》な比喩めいた言葉を云いつづけようとした時、一人の私服が、詳細な屍体検案書を手に入って来た。
ところが、それによって、この事件の謎がさらに深められるに至った。
と云うのは、上行大動脈に達している創底《そうてい》を調べると、そこには毫《ごう》も、兇器の先で印された創痕《きずあと》がないばかりでなく、かえってその血管を、押し潰していることが判ったからだ。
すなわち、瞬間に血行を止めた即死の原因は、それで判るにしても、だいたい頭の円い乳棒のようなもので、皮膚を刺し貫く――というような、神業《かみわざ》めいた兇器が、はたして現実あり得るものだろうか。
そうして、しばらく二人は、顔を見合わせて黙っていたが、ヴィデはその後も、不可解な言葉を吐きつづけた。
「ねえ法水さん、実は艇内に一個所、秘密の出入|扉《ドア》があるのですよ。しかも、それはけっして、肉の眼では見えないのですが、僕は何処にあるか、ようく知っているのです。今日も事件の際に、そこから伝わってくる、気動があったのを覚えています。なにしろムーンの訓盲《くんもう》文字に、十七年間も馴らされているんですからね。とうの昔、失われた眼を、皮膚の上に取り戻していますよ」
と周囲《ぐるり》を嘲るように云い放ったとき、検事はその言葉の魅力に、思わずも引き入れられてしまった。
「というのは、いったい何処からなんです?」
「それが、貯蔵庫《ビム》の方角からでした」
としばらく指を左右に動かしていたが、ヴィデはやがてムッツリと答えた。
が、その貯蔵庫《ビム》というのは、事件のおり夫人がいた発射管室の壁際にあるもので、ヴィデはかくも傲然として、犯人にウルリーケを指摘したのであった。
一座はその瞬間、白けたような沈黙に落ちたが、やがて法水の問いに、石割苗太郎が答えはじめた。
「艇長の屍体を発見したのが、ちょうど夜半《よなか》の二時でしたが、それから四人は、艙蓋《ハッチ》の下で眠るともなく横になっておりました。すると、そのうちに、士官室から前部発射管室の方へ行く、異様な跫音《あしおと》が聴えてきたのです。それは、片手を壁に突きながら、一本の足で歩いているようで……」
と云いかけたときに、一同は冷たい鉄に触れたような思いがした。
なぜなら、その跫音は、明白にシュテッヘであって、失踪当時彼は右足を挫《くじ》いていたからである。
石割もそう云いながら、わなわな顫《ふる》えだして、彼は法水の声する方《かた》に、両手で卓子《テーブル》を捜りながら、躄《いざ》り寄って行くのだった。
「それが、今日耳にしたところでは、シュテッヘという、姿の見えない薄気味悪い男だそうで……。それから、しばらく居眠ったかと思うと、いまその男の行った方角から、今度は普通の足取りで、コトコト戻って来るのを聴きましたが。……それも現《うつつ》の間《ま》で、やがて扉《ドア》が開いて誰やら入って来たのも、暗黒の中で、それと見定めることは出来ませんでした。しかしその時、時計が五時を打って、それだけは、妙に明瞭《はっきり》と覚えていますが……ああ、どうか今夜だけは、貴方がたといっしょに過させていただけませんか……」
そうして、盲人の訊問は終ったが、岬の夜はだんだんと更《ふ》けていって、おりおり思
前へ
次へ
全37ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング