ヲぐ》るような抑揚をつけたけれども、ウルリーケはただ夢見るような瞳を、うつらと※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っているにすぎなかった。
 しかし検事は、そうして遭難の夜の秘密が曝露されて、その時どこかの隅に、肉の眼には見えない異様な目撃者があったのを思うと、たまらなく総身《そうみ》に粟立つのを覚えるのだった。が、次の瞬間、その恐怖はよりいっそう濃くされて、彼は失神せんばかりの激動に打たれた。
「むろんもう一人の名を、ここで野暮らしく、口にするまでには及びますまい。しかし、それ以外にまだもう一つの大きな問題があるのです。と云うのは、最後に大きく記されているXから、屍体の流血で描かれた、卍《まんじ》が聯想されてくるのでして、また、そこに憶測が加わると云うのは、毎夜八住が外出するのが、払暁《あけがた》の五時を跨ぎ、さらに今日の事件が、やはり同じ時刻に行われているからです。そうして、Xの一字を、アラビヤ数字の五(※[#ローマ数字5、1−13−25])二つに割ると、あるいは次の惨劇が起るのが、同じ時刻ではないかという、懸念が濃くなってきます。夫人《おくさん》僕らは夜を徹して、貴女を護りましょう。貴女の悪業は、近世の名将と云われた、第一の夫フォン・エッセンを葬ったばかりでなく、続いて第二の夫、姦夫《かんぷ》シュテッヘにも非業な最期を遂げさせ、さらに第三の夫、八住も殺さなければならなくなったのです。そして、やがては、あの英雄フォン・エッセンも、吾々の手に殺人者として捕縛されることでしょう。しかし、なんとしても僕らは、姦婦である貴女を、死の手から遮らねばならないのです」
 こうして、フォン・エッセンの存在がいよいよ確実にされたのみならず、払暁《あけがた》の五時には、おそらくその触手が、ウルリーケの上に伸べられるであろう。
 再びこの室《へや》は深々とした沈黙に支配されて、それまでは、耳に入らなかった潮鳴りが耳膜を打ち、駅馬車の喇叭《ラッパ》の音が、微かに聴えてきた。
 ところが、その一瞬後に、事態が急転してしまったと云うのは、ウルリーケが静かに立って、書架の中から、二つの品を抜き出して来たからである。
 それを見ると、法水はいたたまらなくなったように、面《おもて》を伏せた。
 なぜなら、その一つというのは、かつてシュテッヘの研究講目だった「古代《こだい》火術史《かじゅつし》」で、いまだ頁《ページ》も切られてはいず、また片方の新聞切抜帖には、大戦直前における快走艇《ヨット》倶楽部員の移動が記されていて、艇長とシュテッヘとは、交互に反対の倶楽部へ入会しているのだった。
 しかしウルリーケは、法水の謝辞を快く容れて自室へ去ったが、そうして、悪鬼の名が、瞬間フォン・エッセンからシュテッヘに変ると同時に、次に目されている二人目の犠牲者の名も、いつしか曖昧模糊たるものになってしまった。
 いずれにしても、遭難の夜の秘密は底知れないのであるが、もしかして三人の盲人《めくら》を訊問してみたら、あるいはその真相が判ってくるのではないかと思われた。そうして、防堤の上に記されている――もう一人を知るために、さっそく三人の盲人が呼ばれることになったが、やがて不具者《かたわもの》の悲愁な姿が現われると、この室《へや》の空気は、いっそう暗澹たるものに化してしまった。
 最初に詩人の犬射が、例の美しい髪を揺《ゆす》り上げて質問に答えた。
「私に、あの夜の艇長について語れとおっしゃるが、それは一口に云うと、海そのもののような沈着だったと云えましょう。
 あの方は、絶えず私たちに、最後まで希望を捨てるな――と訓《さと》されましたが、四人の眼は、そこに磁石でもあるかのように、知らず識らず、救命具のある、貯蔵庫の方に引きつけられていったのです。
 すると艇長は、その気配のただならぬのを悟ったのでしょうか、莞爾《にっこ》と微笑んで、吾々に潜望鏡を覗かせるのでした。
 ところが、水深二〇|米《メートル》の水中にもかかわらず、海水が水銀のような白光を放っているのです。流氷――艇長にそう云われて初めて、温度がいちじるしく低下しているのに気がついたのですが、それを知ると同時に、たちまち周囲が暗くなって、大地が割れた間から、無間《むげん》の地獄が覗いているような気がいたしました。なぜなら、流氷は最短二日ぐらいは続くもので、よしんばその中に浮き揚がったにしても、たちまち四肢が凍《こご》え、凍死の憂目を見ねばならないからです。
 それからしばらく、私たちは数々の悲嘆に襲われて、狂気のように悶え悩んでおりましたが、そうした死の恐怖は、やがて悶《もだ》え尽きると、静かな諦観的な気持に変ってゆくのでした。
 ところが、そうした墓場のような夜。艇長は士官室の中で慌《あわただ》しい急死を
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