ございましたでしょう。あれまでは、トリエステの湾はおろか、アドリヤチックの海の何処にだっても、砲弾《たま》の殻一つ落ちなかったのではございませんか。その安逸が――いいえ蟄居《ちっきょ》とでも申しましょうか。それが、貴方に海の憬れを駆り立て、硝烟《しょうえん》の誘いに耐えきれなくさせて、秘かにUR《ウー・エル》―4号の改装を始めたのでしたわね」
一九一五年五月、参戦と同時に、伊太利は海上封鎖を宣言した。
もともと、両者の海軍力は、戦艦九対十四、装甲巡洋艦九対二の比率で、伊太利側が一倍半の優勢を持していたのである。そこへ、英仏地中海艦隊の援助によって、墺太利《オーストリヤ》沿岸封鎖が行われたのである。
ポーラ鎮守府をはじめに、トリエスト、セベニコ、カッタロ、テオド、ザラ等の各軍港が、ほとんど抵抗もうけず、完全に封鎖されてしまった。そうして、海上貿易の遮断をうけるとともに、墺太利は、各艦隊の連絡策戦が不可能になってしまったのである。
当時、伊太利側の策戦としては、まず、トリエスト、フューメのような無防禦港を破壊する。そうして精神的打撃を与えしかるのちに、海軍要塞を占拠して陸兵を上陸せしめようとしたのであった。それがために、敵艦隊の集中するカッタロ湾に主力を向け、まさにアルバニアのヴァロナを出港せんばかりの気配にあった。
しかし、墺太利《オーストリヤ》側としてもなんとかして、ヴェネチア、ラヴェンナ、アンコナ、タラント等に、勢力を置いている敵の封鎖を打ち破らねばならなかった。そうして、もし巧みに封鎖を脱することができれば、ヴェネチア、アンコナの両港を襲撃できるばかりではなく、ブリンデッシ、バリーなど無防禦港も、砲火の危険に曝《さら》されねばならない。さらに、一段|進捗《しんちょく》して、オトラント海峡の封鎖をみれば、もはや伊太利《イタリー》艦隊は完全な苦戦である。
この二つの策戦は、当時万目の見るところだったのである。そうしていつかは、アドリアチック海の奥に、砲声を聴くであろう。トリエスト、ヴェネチアを結ぶ線上に砲火が散り、そこが両軍の死線となるであろう。と、戦機のせまる異常な圧迫感が、日々に刻々とたかまっていったのである。
しかし、墺海軍は依然として、退嬰《たいえい》そのもののごとく自港の奥に潜んでいた。三隻単位を捨てて、五隻単位主義を採択したほどの墺海軍が、また何故に、損害の軽微な潜航艇戦にも出なかったのであろうか。それには、陸上トレンチノ線の、快勝が原因だったのである。
伊太利陸軍は、参戦以来、主力をイゾンゾに注いで、大規模な攻撃を開始した。しかし、費やした肉弾と、砲弾の量にもかかわらず、わずかイゾンゾ河の下流で国境を越えたにすぎなかった。そこへ、対セルビアの戦闘が終結したのである。
墺軍は、俄然そこで攻勢に転じた。まず、イゾンゾ方面に、兵力集結の偽装をおこない、そうして、伊軍の注意を、その方面に牽《ひ》きつけておいて、その間《かん》に、こっそり攻勢の準備を整えていた。
露墺戦線よりの三個師団、イゾンゾ方面より四個師団、バルカン方面より三個師団、さらに、国内で編成した混成三個旅団を、それまでのケーブエス、ダンクル軍に合わせたのである。そして、オイゲン大公指揮の下に、伊軍陣地を突破して、ヴェネチア平原に進入しようと企てたのであった。
四月二日払暁、ロヴェレット南方より、スガナ渓谷《けいこく》にいたる、トレンチノ全線の砲兵が、約二千門といわれる砲列の火蓋を切った……。それが伊墺戦線最大の殺戮《さつりく》なのであった。モリ南方高地からかけて、ズグナ・トルタ山、マッギオ山、カムポ山、アルメンテラ山を経て、コロー山にわたる伊軍第一陣地は、夕刻までに大半破壊されてしまった。
その頃には、南方チロール地区隊、ギヴディカリー部隊を先頭に、歩兵が行動を開始した。ケーブエス軍は、一部をアディジェ河谷に、主力をアスチコ河谷に向けて、アルシェロ市を目標とした。また、ダンクル軍は、一部をスガナ河谷に、主力をチエッテ・コムニ高原に向け、これはアジアゴ市を目標とした。
そして、猛烈な火砲戦に、算を乱し、潰走する伊軍を追うて、まもなく、その両市を占領することができた。
が、墺太利《オーストリヤ》海軍にとると、この大勝禍いなるかなであった。おそらく、両国の勝敗が、陸戦で決せられるものと見込んだのであろう、いつのまにやら、燃えていた必戦の意気が消えてしまった。しかしその後は、戦線にも格別の変化がなく、ただ伊軍は、じりじりと墺軍を押し戻していった。
それが、決戦派の首領、男爵フォン・エッセンには耐《たま》らなかったのである。彼は、機さえあれば怒号して、軍主脳部に潜航艇戦をせまったのであった。
――わが国は、かつて統一戦争の当時、伊太利《
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