ヘ、この比喩の意味がお判りですか」
それは、妖術というようなものが実現されたとき、かくあらんと思われるような瞬間だった。検事もウルリーケも、同様化石したようになってしまって、よしや彼ら二人に、なお生命があったにしろ、眼はもう見えず、耳がはや聴えなくなったことは、確かであろう。
やがて、ウルリーケの唇から、濡れた紙巻がポタリと落ちたが、依然その姿勢は変らなかった。
法水は闇の海上を、怖ろしげに見やりながら、言葉を次いだ。
「つまり、ヴェネチア湾の海底で、生きながら消え失せたのは、シュテッヘではなく、フォン・エッセンだったのですよ。もっと明瞭《はっき》り云えば、シュテッヘをかくまった、UR《ウー・エル》―4号に、乗り込んだのを最後に、艇長の地上の生活は失われたことになりましょう。なぜなら、そのおりシュテッヘのために、艇長は生とも死ともつかぬ不思議な抹殺をされて、シュテッヘはその場から、フォン・エッセンになりすましました。ですから、その後貴女の閨《ねや》を訪れた人も、コマンドルスキーの海底でこの世を去った艇長も、同様シュテッヘでありまして、しかもなお奇異《ふしぎ》な事には、艇長はそのまま『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』の中で肉眼には見えぬ不可解な生活を続けていたのです。ですから、僕はいま、その漂浪《さまよ》える人を、防堤の上で証明しようとしているのですよ」
「そうしますと法水さん。その一人二役の意味を、童話以上のものに証明お出来になりまして」
とウルリーケは嘲るように云ったが、その声にも、羞恥と憎悪の色を包み隠すことはできなかった。
「だいたい他人の姿に変るということは、小説では容易であっても、事実は全然不可能だろうと思われるのです。それでは、シュテッヘの顔を御存知なのでいらっしゃいますか。実は一枚、あの方の写真があるのですけど、それはまだ、お眼にかけてはおりません」
「ところが夫人《おくさん》、だいたいが、トリエステの早代りさえも映ろうという僕の眼に、そんなものは、てんから不必要なのですよ。たしかシュテッヘは、黒髪《ブルネット》で、細い唇よりの髭と、三角の顎髯《あごひげ》をつけておりましたね。そして、だいたいの眼鼻立ちや輪廓が、艇長と大差なかったのではありませんか」
「ああ、どうしてそれが」
と咄嗟に度を失ってしまい、ウルリーケの胸が、弛んだ太鼓のように波打ちはじめた。
「ですけど、あのテオバルトが、どうしてシュテッヘなものですか。貴方は、私を淫らな不義者にして、いっそこんな恥辱をうけるのなら、私、この場で死んでしまいたい……」
「それでは、なぜ貴女は、艇長の写真を壁の小孔に当てて、掛けて置いたのです。僕はあの孔一つから、貴女の心の閨《ねや》を覗き込みましたよ」
と新しい莨《たばこ》に火を点じて、法水は冷酷な追及を始めた。
「先刻《さっき》お部屋を見たときに、あれが湿板写真――つまり日本に例をとれば、明治初年に流行《はや》った硝子写真であることを知りました。
御承知のとおり、硝子写真というものは、下に黒い地を置けばこそ、陽画に見えますが、もし日光なり光線なりを背後に置いた場合、今度は陰画に化けてしまうのです。
その陰陽の転変……つまり、フォン・エッセンの金髪は黒髪に、唇の上や顎の尖りは、そのまま口髭に、あるいは顎髯となって、フォン・エッセンとシュテッヘは、その一瞬の間に移り変ってしまうのです。
ですから、心が冷たく打ち沈んだときに、裏板を引くと、そこにはシュテッヘの顔が明るく輝き出すでしょう。
すると、貴女は、悩ましそうに微笑むでしょうが、たちまちその秘密の歓楽にぞくぞくしてきて、恋の初めの微妙な感情を、心ゆくままに想い起すことでしょう。ですから、シュテッヘの写真を焼き捨てられても、僕の前には、いささかの効果もないのですよ」
「なに、シュテッヘの写真を焼き捨てた……僕は最初から、君の側を離れなかったのだが……」
と今度は、検事が不審そうに異議を唱えると、法水は面白そうに笑いながら、
「だって、どう考えたって、紡車《つむぎぐるま》が独りでに廻るという道理はないだろう。それに、理由は後で云うが、艇長は或る奇異《ふしぎ》な迷信から、自分が『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』を離れる時刻を決めているんだ。あれには、君も僕も愕《ぎょ》っとなったが、しかしすぐ後で、僕は自分の愚かしさを嗤《わら》いたくなった。だいたい壁炉というものは、必要のない期間だけ、下の火炉と煙突との間を、仕切りで塞いでおくのだ。ところが、それを焼き捨てた人物は、煙が家の中に、立ち罩《こ》めるのを懼《おそ》れたからだろう。仕切りを開いて、煙突から空中に飛散させたのだ。だから、その後になって、霧が煙突の上を通るごとに、火炉の温い洞《ほら》との間に、当然還流が起
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