ホかり突き出てしまって、それを見るとほんとうに、ひとしお家畜《けもの》めいて憐《いじ》らしく思われました」
とその声が、ふと杜絶《とぎ》れたかと思うと、彼女は瞳を片寄せて、耳を傾《か》しげるような所作《しぐさ》を始めた。
「ホラ、お聴きでございましょう。向うの室《へや》から、コトリコトリと聴えてくる音《ね》が……。あれがいま申し上げた紡車なのです。でもまあ、こんな時、誰が廻しているのでしょうねえ」
朝枝の不審は、それ以上の動作には出なかったけれども、彼女が去った後の室内は、沈黙の中で凝《じっ》と虚空から見つめているものがある気がして、なにか由々しい怖《おぞ》ましげな力が、ぞくぞくと身の上に襲いかかってくるのを感じた。
それまではいつか笑い声のうちに消え去るかと、朧《おぼ》ろな望みに耽っていたもの――それがいまや、吹きしく嵐と化したのであったが、二人はそこの閾《しきい》まで来たとき、ハッと打ち据えられたように顎を竦《すく》めた。
それは、コトリと一つ、微《かす》かに響いたかと思われると、その長い余韻の上を重なるようにして、背後にある室《へや》から、盲人《めくら》の話声が聴えるのだったが、もちろん怖れというのはそれではなかった。その室《へや》には、前方に色の褪せた窓掛が、ダラリと垂れているだけで、その蔭の窓にも隅の壁炉にも、それぞれ掛金や畳扉《たたみど》が下りてはいるが、壁炉の前にある紡車を見ると、それには糸の巻き外れたものが幾筋となくあって、明らかに触れた人手があったのを証拠立てていた。
誰ひとり入ることのできないこの室《へや》で、紡車が巻かれてあった――まさにその変異は、最初法水が防堤の上で想像した一人の、眼に触れた最初の断片なのである。
まして、夜な夜な八住が外出していたということは、またその渦を狭めるものであって、結局《とどのつまり》、すべてが「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」に集注されてしまうのだが、そうして、二人はこの短時間のうちに、全身の胆汁《たんじゅう》を絞り尽したと思われるほどの、疲労を覚えたのであった。
やがて、旧《もと》の室《へや》に戻ると、そこにはウルリーケが、皮肉そうな微笑を湛えて二人を待っていた。
二、鉄仮面の舌
ウルリーケの顔は、血を薄めたような灯影の中で、妙に狷介《けんかい》そうな、鋭いものに見えた。が、二人が座に着くと、それを待ち兼ねたように切りだした。
「また、朝枝が何か喋《しゃべ》っていたようでしたわね。私、あの子が先刻《さっき》のアマリリスといい、なぜ肉親の母親を、そんなにまで憎しみたいのか理由が判りませんの。ですけど、八住が夜な夜な、きまって暁け方になると、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』のある岬の角に、行くことだけは事実でございます。どうして、不自由な身体を押してまでも、八住はそうしなくてはならなかったのでしょうか。そこへ貴方は、毎夜防堤に来る男がある――とおっしゃいます。あああの夢が、だんだんと濃くなるではございませんか」
「なるほど――しかし、他人の夢にはおかまいなさらず、御自分の悪夢の方を、おっしゃって下さい。時偶《ときたま》は、トリエステの血のような夢を御覧になるでしょうな」
と法水は、異様なものを仄《ほの》めかしたけれど、ウルリーケの顔は咄嗟《とっさ》に硬くなり、雲のような暈《ぼう》としたものが舞い下りてきた。
「悪夢……。すると貴方は、シュテッヘのことをおっしゃるんですのね。なるほど、あの方が失踪したおりには、テオバルトも一応は疑われました。現に維納《ウイン》の人は、そういった迷信的な解釈をいまだ棄てずにおります。いつまでもテオバルトのことを、『さまよえる和蘭《オランダ》人』のように考えていて、シュテッヘという悪魔を冒涜したために、七つの海を漂浪《さまよ》わねばならなくなったと信じているのです。でもまあ、あのまたとない友情の間に、どうしてそんなことが……いいえ判りましたわ。――貴方もやはり、シュテッヘの失踪について、テオバルトを疑っていらっしゃるのです。ようございますわ。もし、飽くまでもそういう夢をお捨てにならないのでしたら、一つ防堤に来る男というのを、シュテッヘに証明していただきましょうか」
「ところが夫人《おくさん》」
と突然、法水に凄愴な気力が漲《みなぎ》って、
「ところがその、和蘭人を呪縛にくくりつけた悪魔――それは、とおの昔に死にました。いや、率直に云いましょう。『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』遭難の夜艇内で死んだのは、実を云うと艇長ではなく、その悪魔だったのです。そして、一方の和蘭人は、とうの昔トリエステで消え失せていて、それからも『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』を離れず、不思議な生存を続けておりました。どうでしょう夫人《おくさん》、貴女
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