Bれ衣《タルンカッペ》をつけたジーグフリード――この隠語一つの上にかかっているのだがね、いずれは防堤の上で、君にその姿を、御覧に入れる機会があるだろうよ」
検事には、すでに言葉を発する気力がなかった。
ただ彼は、ニーベルンゲン譚詩《リード》を繞《めぐ》って、二つの旋律が奏でられているような気がしていた。自分が弾《ひ》き出すと、いつも法水は、その上をいって、またその二つが絶えず絡み合うのだが、そうしていつ尽きるか涯しない迷路の中を、真転びひしめき行くように思われた。
すると法水は、それまでにないひたむきな形相をして、言葉を次いだ。
「というのは、あるいは妄想かも知らんがね、実はある一つの、怖ろしい事実を知ったからなんだ。だから、一人の名を知れば、それでいいのだよ。ねえ支倉君、このモヤモヤした底知れない神秘――事実まったく迷濛たる事件じゃないか。ニーベルンゲン――暗い霧の子、|霧の衣《タルンカッペ》、ああ霧だ霧だよ、霧、霧、霧……」
と法水の手が、頸《くび》の廻りをかいさぐると、握った指の間から、すうっと這い出るように海霧《ガス》が遁れて行くのだが、さてそうして開いた掌には烟《けむり》の筋一つさえ残らないのである。
その指のしなだれ、燐火のような蒼白さには、ただでさえ、闇中の何物かに怯《おび》やかされていることとて、検事は耐らず、灯を呼びたげな衝動に駆られてきた。
しかし、それは結論を述べる、法水の意外にも落着いた声で遮られた。
「そこで、僕が云うジーグフリードとは、いったい誰のことか。ジーグフリードのいないニーベルンゲン譚詩《リード》――この事件は、まさにそれなんだ。つまり、事件の解決は、あの大古典の伝奇的なつながりの中にあるのだ。ああ支倉君、紙魚《しみ》に蝕ばまれた文字の跡を補って、トリエステで口火が始まる、大伝奇を完成させようじゃないか」
ジーグフリード……別名《エーリアス》は?
それは事によると、芝居気たっぷりな法水が、暗にシュテッヘを差しているのかも知れず、もしくはまた、彼の卓越した心理分析によって、なにか会話の端からでも、新しい人名が掴み出されたのではないかと思われたが、そうして、検事は悪夢の中を行きつ戻りつしているうちに、いやが上にも謎を錯綜とさせる、法水を恨まずにはいられなかった。
そこへ、書架の横にある扉《ドア》が開いて、朝枝の蝋色をした顔が現われた。
彼女が手にした洋灯《ランプ》を、卓子《テーブル》の上に置くのにも、その痩せた節高い指が、痛々しく努力するのを見て、法水は憐憫の情で胸が一杯になった。
「気がつきませんで……。またなにかお訊ねになりたいことが、あるかとも思いまして。それより私、申し上げたいことがございますの」
「と云うと……」
「それは、父のことなんですけど、とうに母の口からお聴きかもしれませんが、ここ十四、五日の間というものは、きまって暁《あ》け方になると、五時を跨いで戸外に出るのです。御存知のとおりの不自由な身で、それがどうあっても、行かねばならぬものと見えまして、戻って来ると、それは息をきらして、暑苦しそうに頬を赤くしているのですわ。それでも、私に訊ねられますと、妙にドギマギして、なあに、入江の曲り角まで行って来たのさ――と答えるのでしたが、また妙に、その不思議な行動が一日も欠かしませず、実は、今朝がたまで続いていたのです。その入江の角というのを、御存知でいらっしゃいますか。裏の防堤がずうと伸びて、岬を少し縫ったところで終っているのですが、その曲ろうとする角が、そうなのでございます。その崖下には、今月の一日から『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』がつながれているのですわ」
「ふむ、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》……』
検事は莨《たばこ》の端をグイと噛み切ったほどに、驚かされてしまった。
「すると、その辺のことを、正確に記憶していますか。お父さんが、そういう行動を始めたのは、何日《いつ》ごろだったか」
「でも、それ以前はどうであったか存じませんが、とにかく臥《ふ》せりながら気づきましたのは、さあ半月ほどまえ、今月の十日からでございます。つまり、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』が来てから十日の後、また三人の盲人《めくら》の方は、その二日まえ――五月二十九日にここへ参りましたのです」
と朝枝は云って、なにかときめいたように躊躇《ちゅうちょ》していたが、やがて胸を張って、口にしたものがあった。
「それから、もう一つ申し上げたいのは、父のそうした行動《ふるまい》が始まった頃から、奇妙に母の態度が変って、荒々しくなってきたことです。ですから、一日中母の眼を避けて、父は紡車《つむぎぐるま》に獅噛《しが》みついていたのでしたわ。そのうえ、上の入歯を紛《な》くしたせいもあったでしょうか、いやに下唇
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