黷トいたその男が、毎夜、裏庭の防堤にまで、来ていたのは御存知ないのですか」
 と八住家の玄関を跨《また》ぐと、法水は突如ウルリーケを驚かせたが、そう云いながらも彼は、背筋を氷のような戦慄《せんりつ》が走り過ぎたのを覚えたのであった。
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    第三編 偶像の黄昏《たそがれ》


      一、漂浪《さまよ》える「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」

 いったんは、ウルリーケも愕《ぎょ》っとしたように振りむいたが、しばらく日傘をつぼめかけたままじっと相手の顔をみつめていた。
 その顔は、また不思議なほどの無表情で、秘密っぽい、法水《のりみず》の言葉にも反響《こだま》一つ戻ってはこないのだ。やがて、自失から醒めたように、正確な調子で問いかえした。
「お言葉の意味が、はっきりとは判りませんけれど、私が怖ろしがっている男というのは、そりゃいったい誰のことなんですの。夜になると裏の防堤に来る――と、いまたしかにそうおっしゃいましたわね。では、その名を打ち明けて下さいましな――ああ誰なんでしょうね。またその男が、貴方《あなた》は、どこから来るとおっしゃるんですの」
「その名は、まだ不幸にして指摘する時機には達しておりません。しかし、その男の出現には、れっきとした証拠があがっているのです。夫人《おくさん》、実は彼方《あちら》からなんですよ」
 と沈痛な眉をあげて、法水は顎を背後にしゃくった。
「海からです。その男は、毎夜海から上がって来て、あの防堤のあたりを彷徨《さまよ》い歩くのです。ですが夫人《おくさん》、けっして僕は幻影を見ているのじゃありませんよ。それには、暗喩《メタフォル》も誇張《イペルボール》もありません。修辞はいっさい抜きにして、僕はただ厳然たる事実のみを申し上げているのです。たぶん、明日の夜の払暁《ひきあけ》には、その姿を、防堤の上で御覧になるでしょう」
「なに、海から……毎夜海から上がって、裏の防堤に来る……」と顎骨をガクガク鳴らせながら、検事は頭の頂辺《てっぺん》まで痺れゆくのを感じた。
 そして、われ知らず防堤の方《かた》を見やるのであったが、どうしたことか、肝腎のウルリーケには、なんの変化も現われてはこない。
 彼女の胸は、ふんわりと気息《いきづ》いていて、その深々とした落着きは、波紋をうけつけぬ隠沼《こもりぬ》のように思えた。しかし、その眼を転
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