フみ彼を傷つけるを得ん。されば、われその手を懼《おそ》るるなり】
それから、三句ばかりの後にも、次の一つがあった。
Said she "Upon his vesture with a fine silken thread, I'll sew a secret crosslet.
【クリームヒルトは云う――。われ秘《ひそ》かに美《うるわ》しき絹糸もて、衣の上に十字を縫いおかん】
「いつかは判《わか》ることだろうが、この数章の中に、二個所だけ、紫鉛筆で傍線《アンダーライン》が引いてある―― Leaf《リーフ》(葉)と Crosslet《クロスレット》(十字形)の下にだ。だが、けっしてこれは今日このごろ記されたものではない。とにかく支倉君、この艇内日誌を調べてみることにしよう。そうしたら、あるいはこの傍線《アンダーライン》の意味が、判ってくるかもしれないからね」
と飽くことを知らない彼の探求心は、普通ならば誰しも看過《みのが》すかと思われるような、傍線《アンダーライン》の上に神経をとどめた。
そして、白いズック表紙の艇内日誌を開いたが、その時二人の眼にサッと駭《おどろ》きの色がかすめた。
というのは、最初の一頁と、中ごろにある伊太利《イタリー》戦闘艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の雷撃を記した、一枚以外の部分は、ことごとく切り取られているからだった。
ところが、それを初めから読み下していくうちに、最初の日の記述の中から、次の一章を拾い上げることができた。
――ウルリーケが首途《かどで》の贈り物に、「ニーベルンゲン譚詩《リード》」をもってした真意は、判然としないが、彼女はそのうちの一節に紫鉛筆で印しをつけ、かたわらの艇員の眼を怖れるようにして余《よ》に示した。
余はただちにその意味を覚ったので、くれぐれも注意する旨を述べ、彼女に感謝した。しかし、それがために心は暗く、彼女の思慮はかえって前途に暗影を投げた。
三、深夜防堤の彷徨《ほうこう》者
「法水《のりみず》君、分った、やっと分ったよ。傍線《アンダーライン》をつけたのは、やはりウルリーケだったのだ」
検事が勢い込むのを、法水は不審げに眺めていたが、
「分ったって……、いったい何が分ったのだ?」
「つまり、葉《リーフ》と十字形《クロスレット》さ。いわばこいつは、ジーグフリードの致命点だっ
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