づけていきたいのである。

「ホホウ、『ニーベルンゲン譚詩《リード》』――世界古典叢書《ワールズ・フェマス・クラシックス》だな。これはラスベルグ稿本《マニュスクリプト》の逐字訳で、英訳の中では一番価値の高いものなんだが」
 と、ずしりと腕に耐《こた》える部厚なものを繰ってゆくうちに、ふと四、五頁、貼りついている部分があるのにぶつかった。
 それには、頁の中央から糸目にかけ、薄い水のような液体の流れた跡が示されている。
 法水《のりみず》はしばらくそれを嗅いでいたが、やがて彼の眼に、恍《う》っとりと魅せられたような色が泛《うか》び上がってきた。
「ねえ支倉《はぜくら》君、僕がもし、ボードレールほどに、交感《コレスポンダンス》の神秘境に達しているのだったら、この涙の匂いで、ウルリーケをいったいなんと唱うだろうね。これからは、牧場のごとく緑なる……嬰児《あかご》の肉のごとくすずしく……また荘重な、深い魂の呻《うめ》きを聴くことができるのだよ」
 その涙の跡は、片時もウルリーケの心の底を離れやらぬ幻――故フォン・エッセン男を慕って火よりも強く、滾々《こんこん》と尽きるを知らぬ熱情の泉だった。
 ところが、まもなくそういった感情も、好色的な薄笑いも彼の顔から消え失せてしまって、眼が、まるで貪《むさ》ぼるかのごとく、一枚の上に釘づけされてしまった。
 それは、英雄ジーグフリードの妻クリームヒルトが、夫を害しようとするハーゲンに瞞《たぶ》らかされて、刃《やいば》も通らぬ夫の身体の中に、一個所だけ弱点があるのを打ち明けてしまう章句《ところ》だった。

 As from the dragon's death wounds gush'd out the crimson gore, with the smoking torrent the worrior wash'd him o'er.
 A Leaf then 'twixt his shoulders fell from the linden baugh, there only steel can harm him; for that I tremble now.
【悪竜の命を絶ちし傷より、深紅の血潮ほとばしり出でたれば、かの勇士その煙霧のごとき流れに身をひたす。その時、菩提樹の枝より一枚の葉舞い落ちて、彼の肩を離れず、その個所《ところ》
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