十|尋《ひろ》近くも下ったことがあったが、その時は、駆逐艦に援護された、日本の商船隊を認めたときであった。
「艇長、貴方は、あの駆逐艦が怖いのですか」
事務長の犬射は、ときおり独詩を書いて示すので、艇長とは打ち解け合った仲であった。
「いや、怖くもないがね。君も知ってのとおり、本艇には、あますところ魚雷が一本だけだ。で、なるべくは大物というわけでね」
そう云って艇長は、蓄音器の把手《ハンドル》をまわし、「碧《あお》きドナウ」をかけた。三鞭酒《シャムパン》を抜く、機関室からは、兵員の合唱が洩れてくる。
が、こうして語るその情景を、眼に、思い泛《うか》べてもらいたい。霧立ち罩《こ》めた夜、波たかく騒ぐ海、駆逐艦からは爆雷が投ぜられて、艇中の鋲《びょう》がふるえる。
しかも、そのまっ暗な、水面下三百|呎《フィート》のしたでは、シュトラウスのワルツが響き、三鞭酒《シャムパン》の栓がふっ飛んでいるのである。四人は、噛《か》みかけた維納腸詰《ウイン・ソーセージ》を嚥《の》み下すこともできず、しばらくは、奇異《ふしぎ》な、浪漫的《ロマンチック》な、悪夢のなかを彷徨《さまよ》っていた。
以上の経過を、犬射は言葉すくなに語りおえたのであるが、すると、見えぬ眼を海上にぴたりと据え、そこを墓とする、武人の俤《おもかげ》を偲《しの》んでいるようであった。
が、やがてその口は、怪奇に絶する、「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」の遭難にふれていた。
「そんなわけで、われわれが過した艇内の生活は、意外にも好運だったと云い得ましょう。そしてその翌日、合衆国巡洋艦『提督《アドミラル》デイウェイ』とコマンドルスキイ沖で遭遇するまでは、航路、まったくの無風帯でした。ところがその時、生れてはじめて海戦というものを目撃した――そのわれわれに、誰が、一週間後になって非運が訪れようと信じられたでしょうか。
それは、忘れもしない六月二日の朝、濃霧《ガス》の霽《は》れ間に、日本国駆逐艦の艦影を望見したので、ともかく、衝角だけは免れようと、急速な潜水をはじめたのです。
ところが、そうして潜《もぐ》って二、三十|米《メートル》のあたりに、どうしたことか、ふいに艇体に激烈な衝撃《ショック》をうけました。それなり艇体を、四十五度も傾けたまま動けなくなってしまったのです。そのはずみに、機関室からは有毒のクローリン
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