瓦斯《ガス》が発生して、艇長を除く以外の乗組員は、ことごとくその場で斃《たお》れてしまいました。
 そうして五人の生存者には、その時から悲惨な海底牢獄の生活が始まって、刻々と、死に向い暗黒にむかって歩みはじめたのです。
 しかし、万が一の希望を繋いでいたとはいえ、あの夢魔のように襲いかかってくる自殺したい衝動と、どんなに……闘うのが困難だったことか。ところが、その日の夜半、突然艇長の急死が吾々《われわれ》を驚かしたのです。
 艇長は士官室の寝台の上で、左手をダラリと垂れたまま、脈も失せ氷のように冷たくなって横たわっておりました。それは、明白な自然の死でした。誓ってそうであったことだけは、かたく断言いたします。
 なぜでしょうか……それにはまず、吾々は艇長に対し寸毫《すんごう》の敵意さえもなかったことが云われます。それに吾々は、万が一の幸運の際のことも考えねばなりません。そうなった時、なんで艇長の指図なくして吾々の手が、迷路のような装置を操り脱出できましょうや。
 ところが、続いて驚くべきことが起ったのです[#「続いて驚くべきことが起ったのです」に傍点]。それはその後[#「それはその後」に傍点]、四時間ほど経つか経たぬかの間にあろうことか[#「四時間ほど経つか経たぬかの間にあろうことか」に傍点]、艇長の死体が烟のように消え失せてしまったのです[#「艇長の死体が烟のように消え失せてしまったのです」に傍点]。
 もちろん蘇生して閉鎖扉を開けて機関室に入ったとすれば、吾々もともどもクローリン瓦斯《ガス》で斃《たお》れねばなりませんし……たとえ発射管から脱出するにしても、肝心の圧搾空気で操作するものが吾々無能の、四人をさておいて外に誰がありましょう。
 また、夜中の脱出は凍死の危険があり、すこぶる無謀であるのは自明の理であるし、現にその救命具も引揚げ後調べると、数が員数どおり揃っていたのです。
 ですから私たちは、ただただ怖ろしい現実に唖然となって、ことにああしたおりでも何かしら、悪夢のような不思議な力に握り竦《すく》められている気がいたしてなりませんでした。
 ああ艇長の死体を艇から引き出したのは、かねて伝説に聴く海魔《ボレアス》の仕業《しわざ》でしょうか、それともまた、文字どおりの奇蹟だったのでしょうか。
 いずれにしても、艇長の死と死体の消失が厳然たる事実であることは、
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