に近い、衰滅の色が現れていた。歯が一本残らず抜け落ちているので、口を結ぶと、そこから下がグイと糶《せ》り上って来て、眼窪までもクシャクシャと縮こまってしまい、忽ち顔の尺に提灯が畳まれて行くのだ。そうなると、その大|※[#縦長の「へ」を右から、その鏡像を左から寄せて、M字形に重ねたような記号、359−2]《いりやま》の頂上《いただき》が、全く鼻翼《こばな》の裾《すそ》に没《かく》れてしまって、そこと鼻筋の形とが、異様に引き合い対照を求めて来る。それがまた、得《え》も云われぬ嘲笑的な図形であって、まさにお筆にとれば刻印に等しく、永世滅し切れぬと思われるほど嘲笑的なものだった。と云うのは、或る一つの洒落《しゃれ》れた○○な形が、場所《ところ》もあろうに、皺の波の中に描かれてしまうからであった。こうして、お筆は一年毎に小さくなって行って、今日此頃では、精々七八つの子供程の丈しかないのであるが、然し、そのような妖怪めいた相貌も、寮の人達にとれば、日毎見慣れているだけに、何等他奇のないものだったであろう。
けれども、その時は合の襖を開いた途端に、光子は危く声を立てようとし、後探りに杉江の前垂れの端を、思わずも握り締めた。それは雪洞の灯を掻き立てようとしたのであろう、お筆は雛段の方に少しにじり寄っていて、半ば開いた口が、紅《べに》の灯を真正面《まとも》にうけていたからだった。その――いやに紫ずんでいて、そこには到底、光も艶もうけつけまいと思われるような歯齦《はぐき》だけのものが、銅味《あかみ》に染んだせいかドス黒く溶けて、そこが鉄漿《おはぐろ》のように見える。そして、その奥が赭っと赤く、血でも含んだように染まっているのだが……、何より光子と云う娘は、幼ない頃からお伽噺《とぎばなし》と現実との差別がつかなかったり、また日頃芝居や一枚絵などを見馴れている少女だったので、全くそのような娘には、すぐ何かにつけて夢幻的な世界が作られ、彼女自身も、その空気の中に溶け込んでしまう性癖が、なければならなかった。それで、お筆の腰から下が緋毛氈に隠れているのが眼にとまると、そこが緋袴にでも連想されたのであろう。忽《たちま》ちその全身が、官女の怨霊のようなものに化してしまい、それがパッと眼に飛び付いて来ると、その瞬間お光の幼稚な心は、はや幻と現実との差別を失ってしまったのである。
然し、お筆は日頃の険相には似もせず、愛想よく二人を招じ入れたが、そうしてはじめ光子の童心を襲った悪夢のような世界は、続いて涯てしもなく、波紋を繰り広げて行った。老いた遊女が年に一度催す異形な雛祭りと云うのが、たとえ如何なるものであるにせよ……、また既にそこに宿っている神秘が、二人を朦朧《もうろう》とさせているにもせよ……、決してその本体は、光子が描き出したような夢幻の中にはなかったのである。
二、傾城釘抜香《けいせいくぎぬきこう》のこと
並びに老遊女観覧車を眺め望むこと
雛段の配置には、別に何処と云って変わった点はなかったけれども、人形がそれぞれに一つ――例えば、官女の檜扇には根付、五人囃しが小太鼓の代りに印伝の莨《たばこ》入れを打つと云った具合で、そのむかしお筆を繞《めぐ》り粋《いき》を競った通客共の遺品が、一つ一つ人形に添えられてあった。所が、杉江の眼が逸早《いちはや》く飛んだのは、一番上段にある内裏雛《だいりびな》に注がれた。そのうち女雛の方が、一本の長笄《ながこうがい》――それは、白鼈甲に紅は鎌形の紋が頭飾りになっているのを、抱いていたからである。杉江は、もの静かに眼を返して、それをお筆に問うた。
「ねえ御隠居様、たしかこの笄は、花魁《おいらん》衆のお髪《ぐし》を後光のように取り囲んでいるあれそうそう立兵庫《たてひょうご》と申しましたか、たしかそれに使われるもので御座りましょう。けども真逆《まさか》の女のお客とは……」
お筆は、相手が気に入りの杉江だけに、すぐその理由を説明しようとする気配を現した。クッキリ結んだ唇が解けて、顔が提灯を伸ばしたように長くなったが、やがてその端から、フウとふいごの風のような呼吸が洩れて行って、
「いいえ、実はそれが、私のものなんだよ。私のこの白笄は、いわば全盛の記念《かたみ》だけど、玉屋の八代の間これを挿したものと云えば、私の外何人もなかったそうだよ。それには、こう云う風習《しきたり》があってね」と国分《こくぶ》を詰めて、一口軽く吸い、その煙草を伊達に構えて語り出した。
「まあ御覧な。笄《こうがい》の頭がありきたりの耳掻き形じゃなくて、紅い卍字鎌の紋になっているだろう。それが、朋輩だった小式部《こしきぶ》さんの定紋で、たしか、公方様お変りの年の八朔《はっさく》の紋日だと思ったがね。三分以上の花魁八人が、それぞれ
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