分の景と変り、ちらりと火が灯《とも》ります。首尾よう参りますれば、お名残惜しうはござりまするが、そういう様へのお暇乞い。何んよい細工で御座りましょうが。)と呼び立てるのを聴けば、年柄もなくそのからくり屋を光子が門前で引き止めていたらしく思われる。
まことに、そのような邪気《あどけ》なさは、里俗に云う、「禿《かむろ》の銭《ぜに》」「役者子供」などに当るのであろう。けれども、また工阪杉江にとると、それが一入《ひとしお》いとし気に見えるのだった。全く光子と云う娘は、又とない内気者――。人中《ひとなか》と来ては、女学校にさえ行く事が出来ない――と云っても、それが掛値なしの真実なのであるから、当然そこには家庭教師が必要となって、工阪杉江が招かれるに至った。然し、そうして杉江が現れた事は、また半面に於いても、光子を永い間の寂寥から救う事になった。と云うのは、十歳の折乳母に死に別れてからは、時偶《ときたま》この寮に送られて来る娘はあっても、少し経つと店に突き出されて、仙州《せんしゅう》、誰袖《たがそで》、東路《あずまじ》などと、名前さえも変ってしまう。そんな訳で、唯さえ人淋しく、おまけに、変質者《ひねくれもの》で、祖母とは名のみのお筆と一所に住んで行くのには、到底《とうてい》耐えられなくなった矢先の事とて、光子が杉江を、いっかな離すまいと念じているのも無理ではないのである。全く、工阪杉江と云う婦人には、寧ろ女好みのする魅力があった。年齢《としのころ》はまだ三十に届いたか、届かぬ位であろうが色白の細面《ほそおもて》に背の高いすらりとした瘠形《やせがた》で、刻明な鼻筋には、何処か近付き難い険があるけれども、寮に来てからと云うものは、銀杏返しを結い出して、それが幾分、理性の鋭さを緩和しているように思われた。然し、そう云った年配婦人の、淋し気な沈着《おちつき》と云うものは、また光子ぐらいの年頃にとると、こよなく力強いものに相違なかった。そして、次第にその二人の間は、師弟とも母子《おやこ》ともつかぬ、異様な愛着で結ばれて行ったのであるが、然しその時だけは、杉江の口の端に焦《じ》り焦《じ》りしたものが現われ待ち兼ねたように腰を浮していた。
「光子さん、先刻《さっき》からお祖母さまがお呼び立てで御座いますのよ。いつものお雛様をお飾りになったとかで。いいえ、行かないでは私が済みません。あのお祖母さまがおむずかりにでもなったら、それこそで御座いますよ」
と叱るようにして促がすと、あんな妙なお雛様って――と一端は光子が、邪気《あどけ》なく頬を膨らませてすねてはみたが、案外|従順《すなお》に、連れられるまま祖母の室に赴いた。お筆が住んでいるのは、本屋とは回廊で連なっている離れであって、その薄暗い二階に、好んで起き臥しているのだった。その室は、光琳《こうりん》風の襖絵のある十畳間で、左手の南向きだけが、縁になっていた。その所以《せい》でもあろうか。午後になって陽の向きが変って来ると、室の四隅からは、はや翳《かげ》りが始まって来る。鴨居が沈み、床桂に異様な底光りが加わって来て、それが、様々な物の形に割れ出して行くのだ。すると、唯でさえチンマリとしたお筆の身体が、一際《ひときわ》小さく見えて、はては奇絶な盆石か、無細工な木の根人形としか思われなくなってしまうのだった。
然し、その日のように雛段が飾られて、紅白に染め分けられた雪洞の灯が、朧ろな裾を引き始めて来ると、そこにはまた別種の鬼気が――今度は、お筆の周囲《ぐるり》から立ち上って来るのだった。と云って、必ずしもそれは、緋毛氈の反射の所以ばかりではなかったであろう。恰度《ちょうど》その白と紅の境いが、額の辺りに落ちているので、お筆の顔は、その二段の色に染め分けられていた。額から下は赭っと柿ばんでいて、それがテッキリ、嬰児《あかご》の皮膚を見るようであるが、額から上は、切髪の生え際だけが、微かに薄映み――その奥には、白髪が硫黄の海のように波打っていた。
然し、それだけでは、余りに顔粧《かお》作りめいた記述である。そのようにして、色の対照だけで判ずるとすれば、さしずめお筆を形容するものに、猩々《しょうじょう》が芝居絵の岩藤。それとも山姥とでも云うのなら、まずその辺が、せいぜい関の山であろうか。けれども、その顔を線だけに引ん剥いてみると、そこには、人間のうちで最も醜怪な相が現れていた。もし、半世に罪業深く、到底死に切れぬような人間があるとしたら、それが疑いもなく、お筆であろう。眉は、付け眉みたいに房々としていて、鼻筋も未だに生々しい張りを見せている。が、その偏平な形は、所謂《いわゆる》男根形と呼ばれるものであって、全くそこだけにはお筆の業《ごう》そのもののような生気がとどまっている。けれども、それ以外には、はや終焉
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