る事になった。けれども、その時の、杉江の顔をもし眺めた人があったとしたら、たしかその中に燃えさかっている、激情の嵐を観取する事が出来たであろう。彼女は雨戸に手をかけたままで、茫《ぼ》んやり前方の空間を眺めていた。そこには大観覧車の円芯の辺りを、二、三条の夕焼雲が横切っていて、それが、書割の作り日の出のように見えた。そして、問題の一等車が、予期した通り円の頂点に静止しているのだけれども、そのもの静かな黄昏が、今宵からのお筆の安かな寝息を思わせるとは云え、却って杉江にとると、それが魔法のような物凄い月光に感ぜられたのであった。
 それから、彼女は雨戸を繰り、硝子戸を締めて、階段を下りて行ったが、何故か本屋に帰るではなく、離れの前庭にある楓の樹に寄りかかって、じっと耳を凝らし始めた。すると、それから二、三分後になって、お筆がいる二階の方角で、キイと布を引き裂くような叫声が起った。その瞬間杉江の全身が一度に崩れてしまい、身も世もあらぬように戦《おのの》き出したと思われたけれども、見る見る間に彼女の顔は、鉄のような意志の力で引き締められて行った。そして、本屋の縁を踏む頃には、呼吸も平常通りに整っていたのである。然し、それから一週間程経って、家婢が食事を運んで行くと、意外にもそこで、尾彦楼お筆の絶命している姿が、発見されたのであった。その死因は、明白な心臓麻痺であり、お筆は永い業の生涯を、慌だしくもまるで風のように去ってしまった。
「どうして先生、あの日には、お祖母さまが辛《き》っと御安心なさったのでしょう。それだのに、何故ああも急にお没くなりになったのでしょうか」とはや五七日も過ぎ、白木の位牌が朱塗の豪奢なものに変えられた日の事であった。杉江と居並んで、仏壇の中を覗き込んでいるうちに、お光はそう言ってから、金ぴかの大姉号を眺め始めた。
「それは、斯《こ》う云う訳なので御座いますよ。貴女はまだ、その道理がお解けになる年齢《としごろ》では御座いませんが、そう云う疑念《うたがい》が貴方の生長《そだち》を妨げてはと思いますので、ここで、思い切ってお話しする事に致しましょう」
 と杉江は、今までにない厳粛な態度になって、お光を自分の胸に摺り寄せた。
「実を申しますと、お祖母さまは、私があの世にお導きしたので御座います。と申すよりも、あの大観覧車に殺されたと云った方が――いいえ、その原因と云うのも、あの紅色の一等車にあったのです。あの時お祖母様は、御云い付け通りになったのを見て御安心になり、すぐ部屋の中へお入りになられたのですが、それから少し経つと、いきなり観覧車が逆立ちして、あの紅の箱が、お祖母さまが一番お嫌いの色と変わってしまったのでした。私はまだお教えは致しませんでしたが、総じてものの色と云うものは、周囲《あたり》が暗くなるにつれて、白が黄に、赤が黒に変ってしまうものなのです……。あの観覧車にも、陽が沈んで。残陽ばかりになってしまうと、此方から見る紅の色が殆んど黒ずんでしまうのです。またそれにつれて、支柱の銀色も黄ばんでしまうので、恰度その形が大きな黒頭の笄に似て来て、しかも、それがニョキリと突っ立っているようでは御座いませんか。けれども、それだけでは、到底お祖母様を駭《おどろ》かせて、心臓に手をかけるだけの働きはないのです。実は光子さん、この私が、あの観覧車を逆立ちさせたので御座いますよ」
「それは先生、どうしてなんで御座いますよ。まるでお伽噺みたいに、そんなことって……」
 とお光は結綿を動かして、せかせかと息を喘ませていたが、杉江はその黒襟の汚れを爪で弾き取って、
「いいえ、それと云うのは、私の設えた幻燈なので御座います。あの二階の雨戸に一つ節穴があるのを御存知でいらっしゃいましょう。ですから、その上に硝子の焼泡が発するようにして締めたのですから、当然そこから入って来る倒《さ》かさの像が直立してしまって否でも次の障子にその黒頭の笄が似た形が、映らなくてはならないでは御座いませんか。つまり、普通ならば逆さに映るべきものが、真直に立っているのですから、現実上野にある観覧車が逆立ちしてしまったと。お祖母さまは思われたのです。ですけど、日頃は楓の樹に、邪魔されていて、その光線が雨戸に当らなかったのですから、それをし了せるためには、是が非にも楓を横に傾《かし》がせねばならなかったのです。ねえ光子さん、お祖母さまはどうして何故に、黒頭の笄の下向きを怖れられていたのでしょうか」
 それに依るとお筆の急死は、瞬間現れた倒像に駭いての、衝撃《ショック》死に相違いなかった。けれども、そうして現れた黒頭の笄が、何故に逆立ちすると、それがお筆の心臓を握りしめてしまったのであろうか。或は、その笄と言うのが、殆んど記憶の中でかすれ消えてはいるけれども、そのむかし、
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