またそうかと云ってその得体の知れぬ魔力と云うのが、却って西空の観覧車にあるのではないかと思われもするので……、ああでもない斯うでもないと、とつおいつ捻り回しているうちには、遠景の観覧車も眼前にある異形なお筆も、結局一色の雑然とした混淆の中に、溶け込んでしまうのだった。然し、そうして、お筆の動作に惹かれて行ったせいか、杉江は、観覧車の細かい部分までも知る事が出来た。
 それには細叙《さいじょ》の必要はないと思うが、大体が直径二、三町もあろうと思われる、巨大な車輪である。そして、軸から輻射状に発している支柱が、大輪を作っていて、恰度初期の客車のような体裁をした箱が、その円周に幾つとなくぶる下っている。勿論、それが緩やかに回転するにつれて、眼下に雄大な眺望が繰り広げられて行くのだった。が、その客室のうちに、一つだけ美麗な紅色に塗られたのがあって、それが一等車になっていた。
 その紅車《あかぐるま》の一つが、お筆の凝視の的であった事は、後に至って判明したのだったけれども、彼女の奇怪な行動はその日のみに止まらず、翌日もその次の日もいっかな止まろうとはしなかったので、その毒々しいまでの物奇《ものず》きには、もう既に呆れを通り越してしまって、何か凸凹の鏡面でも眺めているような、不安定なもどかしさを感じて来るのだった。然し、そうしているお筆を見ていると、その身体には日増しに皮膚が乾しかすばって行って、所々水気を持った、黒い腫物様の斑点が盛り上って来た。それでなくとも、鼻翼《こばな》や目窪や瞳の光りなどにも、何となく、目前の不吉を予知しているような兆が現れているので、最早寸秒さえも吝《おし》まなくてはならぬ時期に達しているのではないかと思われた。勿論光子は、怖ろしがって近付かなかったけれども、杉江は凡《あら》ゆる手段を尽して、お筆の偏狂を止めさせようとした。が、結局噛みつくような眼で酬《むく》い返《かえ》されるだけで、彼女は幾度か引き下らねばならなかったのだ。然し、その四日目になると、お筆は杉江を二階に呼んで、意外な事にはその一等室の買切りを命じた、しかもその上更に一つの条件を加えたのであったが、その影には、鳥渡説明の出来ぬような痛々しさが漂っていて、生気を、その一重に耐《こら》え保っている人のように思われた。
「とにかく、いずれ私の死に際にでも、その理由は話すとしてさ。さぞ、お前さんも云い難いだろうがね。この事だけは、是非なんとか計らって貰いたいのだよ。あの観覧車の中に、一つ紅色に塗った車があるじゃないか。それが、毎日四時の閉場《はね》になると、一番下になってしまって、寛永寺の森の中に隠されてしまうのだよ。いいからそれを、私は閉会《らく》の日まで買い切るからね。一つ、一番|頂辺《てっぺん》に出しておくれ――って」そのように、お筆が思いも依らぬ空飛な行動に出たのは、一体何故であろうか。然し、その理由を是非にも聴こうとする衝動には、可成り悩まされたけれども、杉江はただ従順《すなお》に応《いら》えをしたのみで、離れを出た。そうして、厚い札束と共に、妖しい疑問の雲をお筆から譲られたのであったが、何故となくその紅色をした一等車と云っただけで、さしもお筆の心中に渦巻いている偏執が判ったような気がした。あの紅色の一点――それがどうして、下向いてはならないのだろうか。また、立兵庫を後光のように飾っている笄の形が、よくなんと、観覧車にそっくりではないか。
 そうして、翌日になると、その一等室の買切りが、はや市中の話題を独占してしまったが、詰まる所は、尾彦楼お筆の時代錯誤的な大尽風となってしまい、その如何にも古めかし気な駄駄羅《だだら》振りには、栗生武右衛門チャリネ買切りの図などが、新聞に持ち出された程だった。然し、やがて正午《ひる》が廻って四時が来、愈々《いよいよ》大観覧車の閉場時《はねどき》になると、さしも中空を塞いでいる大車輪にも、見事お筆の所望が入れられたのであろう。ぴったりと紅の指針を宙に突っ立てたのだった。
「ああ、やれやれこれでいいんだよ。お前さんには、えらいお世話になったものさ。だけど杉江さん、念を押すまでの事はないだろうが、あれは必ず、閉会《おわり》までは確かなんだろうね。もし一度だって、あの紅い箱が下で止まるようだったら、私しゃ唯あ置きゃしないからね」
 と云うお筆の言葉にも、もう張りが弛んでいて、全身の陰影からは一斉に鋭さが失せてしまった。それは、あたかも生れ変った人のように見えるのだった。遂ぞ今まで、襠掛を着て観覧車を眺めていたお筆と云う存在は、とうに死んでしまっていて、唯残った気魄だけが、その屍体を動かしているとしか思えなかったほど、彼女の影は薄れてしまったのである。そして、その日は、縁からも退いてしまって、再びお筆は、旧通りの習慣を辿
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