。無論鍵の押金が上へ向いていればこそ、可能な話なんだよ。そこで、扉の内側に入って把手を廻すと、この通り糸が鍵を引いて回転させるので掛金は下りるが、鍵の押金は下へ降り切らずに中途で糸に支えられる。で、その次に、鍵穴を通った糸を引くんだ。無論鍵の輪形の結び目が解けるから、それから把手を何度も回転して、角軸に絡めたのを弛《ゆる》めながら糸を引けば、どうだい、スルスル中へ入ってしまうだろう。そして、鍵の押金が垂直になって痕が残らないんだ。」
しかし、法水は弛んだ顔で扉を開いた。
「ところが、鐘声があるので、この思いつきだけで事件を終らせてしまうわけにはいかないのさ。構内に足跡がないと云うことは結局《とどのつまり》犯人が堂内にあり――と云う暗示なんだがね。」
検事と熊城はややしばし放心の態であったが、やがて熊城は階下へ降りて行き、二人の捕虜に対する訊問を終って来た。
「ルキーンの奴は、イリヤの話は全部それに違いないと云うのだが、行くふりをした豪徳寺行だけは、飽くまで頑張り通している――なんてヘマな不在証明《アリバイ》じゃないか。それから、ワシレンコは一種の志士業者で、右翼団体の天竜会が養っているそうだが、ひどい結核患者で見る影もないよ。あいつは昨夜ジナイーダが結婚すると云う噂に亢奮して、終夜《よっぴて》この周囲《ぐるり》を彷徨《うろつ》き歩いていたと云うのだがね。しかし、あの男は犯人じゃない。」そう云って、熊城は脂《やに》で染った指先をピチリと鳴らした。
「ねえ法水君、風が烈《はげ》しかったのと傾斜とで、円蓋に霙が積っていない。だが、円蓋に足跡のないことが、かえって想像を自由にしてくれる。そして、なんだか犯人の目星がつきそうなんだよ。それから、鐘の鳴った原因もさ。」
「そりゃ奇抜だ。」法水は猛烈に皮肉った。「すると、君はどう云う方法で、鐘にああ云う不思議な鳴り方をさせるんだ? それに、第一犯人の特徴を備えた人物が、現在知られているうちにはないはずだぜ。」
三
「冗談じゃない。ルキーン以外に犯人があるもんか。」熊城の声が思わず高くなった。「死体の謎も、六|呎《フィート》と三呎半の差をいかに除くかによって解決されるんだ。」
「ホホウ、と云うと、」
「それは、構内に足跡がないからだよ。と云って、犯人を姉妹の中に想像することは、鐘声が明確な反証を挙げているのだからね。結局、犯人は霙の降りやんだ二時頃にはすでに堂内にいて、兇行を終えてから、地上に踵《かかと》を触れず遁《のが》れ去ったと観察するほかにない。その際は鐘が鳴ったことは云うまでもないが、しかし、脱出の径路はすこぶる単純なんだよ。まず振綱に攀《よ》じ登ってから塔の窓に出て、そこで兇器を裏門の方へ投げ捨ててから、架空線《アンテナ》を伝わって円蓋《ドーム》を下り、そして、回転窓の下に引き込まれてある動力線に吊《つ》り下って、スルスル猿みたいに構外へ出てしまったのだ。ところで、何が僕にそう云う推定をさせたかと云うに、第一が動力線に霙の氷結がないことで、次が振綱に刺さっていた白薔薇だ。――あれは、ルキーンが拾ってそれでジナイーダの移香を偲《しの》んでいたものが、綱を登る際に何かの拍子で移ったのだよ。それからもう一つは、そう云う離業《はなれわざ》を演《や》って退《の》けられる膂力《りょりょく》と習練を備えた人物が、現在この事件の登場人物のうちにあるからだ。三丈もある綱を軽々と登れるばかりでなく、動力線を猿渡《さるわた》りする場合に、もし普通人程度の膂力と体重だとすれば、引込個所や電柱上の接合部分に、相当眼にとどまる程度の損傷が現われるだろう! おそらく一町以上の距離は容易に渡り切れぬだろうと思うね。そうなると、人並優れた腕力とそれに反比例する小児程度の体重[#「人並優れた腕力とそれに反比例する小児程度の体重」に傍点]――と云う至極難条件が、ルキーンによってやすやすと解決されるのだよ。しかも、綱に織物の繊維が残っていないと云うことが、かえって防水服で固めたルキーンを、逆説的に証明することになるだろう。」
検事は呆《あき》れたように熊城を瞶《みつ》めていたが、
「そんなことなら、わざわざ君に聴くまでもないぜ。楽な解釈に有頂天になってしまって、君は鐘の機械装置を忘れてしまったのだ。」
しかし、その時はまだ熊城の解釈以上に、鐘声の怪を実務的に説明するものがなかったのだ。
「マア、聴き給え。いま綱の振動で鐘が鳴ったと云ったけれども、それは、あの不可解な鳴り方をした時を指して云うのではない。それ以前にあったのだ。つまり、時刻はずれに鐘の鳴ったのが二度あったのだよ。その二度目の時が君達始め姉妹の耳に入ったので、最初脱出の時のは、おそらく聴えぬ程度の弱音だったに違いない。なぜなら、ルキーン程度の腕力を備えた人物だと、尺蠖《しゃくとりむし》みたいな伸縮をしなくても、最初グッと一杯に引いて鐘を一方に傾けておき、その位置が戻らぬように腕だけを使って登ることが出来るだろうからね。そうすると、始めと終りの二度だけ、ガチャリとかすかに打衝《ぶっつか》る音しか立たんわけだよ。」
「すると、君の云う二度目の鐘は。」
「フフフ、あれは潤色的な出来事さ。」熊城は洒々《しゃあしゃあ》として鐘声排除説を主張した。「なるほど、鐘に直接触れた形跡はないのだ! あったにしても、手で押したくらいや振錘《ふりこ》を叩きつけたぐらいでは、大鐘は微動もせんと云うのだから、どうして大鐘が動いて逆に振動が小鐘に伝わり、鐘全体がああ云う首尾顛倒した鳴り方をしたのか判らない。もちろん不思議と云えば、これ以上の不思議はないのだが、しかしこの事件ではそれがホンのつまらない端役に過ぎないのだ。では、なぜかと云うと、鐘と死体を繞《めぐ》って推定されるものが、ことごとく一寸法師ルキーンの驚異的な特徴に一致している。また、そればかりでなく鐘の現象が犯人脱出後に起っているのだからね。[#「鐘の現象が犯人脱出後に起っているのだからね。」に傍点]だから、事件の複雑さを増す戯曲的な色彩にはなっても、とうてい本質を左右するものじゃない。ねえ法水君、捜査官が猟奇的な興味を起したばかりに、せっかく事件の解決を失った例が決して少なくはないのだぜ。いや、僕も危うくその轍《てつ》を踏《ふ》むところだったよ。」
「なるほど、君近来の傑作だけど、」露骨な嘲弄味を見せて、法水が煙の輪を吐いた。「だが、そうなると殺した者と綱を攀《よ》じ登った者と、こう別個の人物が二人現われるわけになるね。」
熊城は相手が法水だけに、ほとんど怯懦《きょうだ》に近い警戒の色を泛《うか》べたが、検事は腿《もも》を叩いて、
「ウン、それに違いない。」と法水に同意してから、自説を云い出した。
「ねえ熊城君、死体は他殺死体には類例のない妙な格好で、跼《しゃが》んだまま死んでるんだぜ。そればかりでなく、死体を繞《めぐ》って謎だらけなんだ。第一格闘の形跡がないし、苦悶に引ん歪《ゆが》んだ顔や指先をしていても、のた打ち廻ったり逃れようとして床を掻《か》き※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、147−下段11]《むし》った跡もなければ、傷口を押えた形跡も見られない。いくら君でも、気管を切断されただけで、雷撃的な即死は考えられないだろう。それから、外傷は一つだけで、しかもその創道が自殺者以外には見ることのない方向を示していて咽喉を斜上《ななめうえ》に突き上げている。そう云うふうに目標の困難な個所を狙って一撃で効果を収ると云うことは、被害者が故意に便宜な姿勢をとらない限りは、まず不可能と見て差支えあるまい。もちろんルキーンでは、跳躍《ジャンプ》しないと傷口に届かないし、逆にラザレフが跼んでいたと考えれば、すべてがより以上に不可解になってしまう。それにまた、手燭は上から取り落された形跡がなく、着衣にも焦痕《こげあと》がないばかりか、しかも、ああ行儀よく据えられているんだ。だから、僕にはあらゆる状況に渉《わた》って、ラザレフの意志が現われているように思われるのだがね。熊城君、僕はラザレフの死に自殺を主張するぜ。」
「すると、死体はどう云う方法で、兇器を堂外に持ち出したのだね?」
「それは後から抜き取られたのだよ。君はその抜き取った人物を指して、犯人だと云ってるんだ。ところで、奇抜な想像かもしれないが、なにがラザレフを自殺させたか――述べることにしよう。僕はナデコフの置洋燈《スタンド》を見てから、ラザレフとルキーンとの間にもっと深刻な秘密――、と云うより、ルキーンがこの老人の致命的な弱点を握っているのではないか、と考えられて来た。で、それと交換条件にルキーンはジナイーダを求めたのだろうと思うね。しかし、ジナイーダは頑強に拒み続けるので、縺《もつ》れに縺れた紛争は恐らく夜半を越えたに違いないのだ。だから、ルキーンは電報がきても実際は行かずに食堂の中に止っていたのだよ。ところが、そうして抜差《ぬきさし》のならない窮地に陥ったラザレフは、たちまち一策を案じたのだ。それは、妹のイリヤに含めてルキーンに挑《いど》ませることだよ。あの女はどこか変態的なところがあると見えて、自分からルキーンに対する感情を告白しているぜ。しかし、ジナイーダに対する執着の飽くまで強いルキーンは、妹娘には手を触れようともしない。それがために、そのなりゆきを扉《ドア》の隙から窺っていたラザレフは、ついに絶望のあげく自殺をとげてしまったのだよ。君は点け放しになっていた壁燈を憶えているだろう。多分ルキーンが消し忘れたのだろうが、あれがあったばかりに、ルキーン対イリヤの鳴神《なるがみ》式な色模様を、ラザレフは見ることが出来たのだ。」
法水はニヤニヤ微笑みながら、濛々《もうもう》と烟《けむ》ばかり吐き出していたが、
「なるほど、各人各説と云うわけだね。それでは支倉君、君は手燭をどう説明する?」
「それはこうなんだ。その時ラザレフは、最初五|分《ぶ》ばかりに残った蝋燭を点《とも》して、扉の前に立ったのだが、左手が不髄なために一まず手燭を床の上においてから、扉を細目に開いたのだ。そうして、手燭を消すのも忘れて凝視しているうちに、やがて蝋燭は燃え尽きてしまい、その暗黒の中で、最後の怖ろしい断定を前方に認めねばならなかったのだ。ところで、ラザレフの自殺を発見したルキーンが、それからどうしたかと云うに、彼はそれを利用して、対ジナイーダの関係を有利に展開させようと試みた。と云うのは、ルキーンの邪推からジナイーダの蔭にあり――と信じたワシレンコを除くことで、深夜会堂の周囲を狂人のように徘徊《はいかい》している姿を目撃したからだよ。そしてイリヤに口止をしてから、短剣を抜き取って姉妹の室に鍵を下し、それから、君の推定通りの径路を辿って、構外に脱出したのだ。さて、そうなると鐘をルキーンが鳴らしたことは云うまでもあるまい。その幻妙不可思議な手法は無論ルキーンだけの秘密だけども、発見を一刻でも早めることが彼奴《きゃつ》にとってこの上もない利益なのだからね。鳴らさねばならない理由はこれで立派に判ってたことになる。だから熊城君、この事件には一人の犯人もないことになってしまうのだよ。」
「すると、死体の謎はどうなるね?」
「それは、或る病理上の可能性を信ずる以外にないと思うね。刃を突き立てた瞬間に、それまで健康だった脳髄[#底本では「脳随」と誤記]の左半葉に溢血して、自由な右半身に中風性麻痺が起ったのだ。半身不随者が絶えず不意の顛倒を神経的に警戒しているのを見ても判るだろうが、異常な精神衝撃や肉体に打撃をうけると、残り半葉によく続発症状が発するものなんだ。その意味で剖検の発表が待たれてならないと云うわけさ。」
「フム」と頷いたが、熊城は意地悪そうに笑って、「しかし、それはむしろ他殺の場合に云うことだろう。それに、君は死体の奇妙な鉾立腰《ほこだてごし》に注意を欠いている。もっとも、その辺を曖昧にしなければ、自殺だなんて荒唐無稽な説が成立する気遣いはないのだがね。
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