しかもその真因が解ると、君の説が出発している創道の方向から、ラザレフの意志が消えてしまうのだよ。ところで何がああ云う形を作ったかと云えば、それは一寸法師ルキーンの体躯なんだ。――まずルキーンが扉の外から声を掛けたとする。そうすると、ラザレフは当然彼の身長を知っているのだから、恐らく、半ば習慣的に上体を曲げて、扉の間から首を突き出したに相違ない。そこを下から突き上げられたのだよ。そして、ラザレフはそのままの形で崩れ落ちたのだが、その時健康な半身に中風性麻痺が起ったのだ。つまり、ルキーンの頭上にラザレフの咽喉《のど》が現われたのだから、加害者がいかなる姿勢で突いたと云うよりも、ルキーンの特殊な身長では、あの個所をああ云う方向に突くよりほかに方法がなかったのだ。」
「すると、着衣に焦げた痕が現われなければならんよ。」検事は半ば敗勢を自覚して、声に力がなかった。「無論手燭を下において扉を開けたのだろうが、それには、蝋燭が燃え尽きるまでの時間がない。」
 そこで熊城は最後の結論を云った。
「しかし、ルキーンが五|分《ぶ》ばかりだと云う蝋燭が、その間に一度は使われていたとしたらどうだろう。そして、芯だけになったのに、吝嗇《りんしょく》なラザレフが点《とも》したとすると、芯の下方が燃えることになるから、下の蝋が熔けるにつれて、横倒しに押し流され炎が直立しなくなってしまうぜ。」と凱歌を挙げたが、彼はチラと臆病そうな流眄《ながしめ》を馳せて、
「時に法水君、君の意見は?」とたずねた。
「サア、僕の意見ってただ」しかし彼の眼光には、決定したものの鋭さがあった。「困ったことには、鐘声の地位を主役に進めるだけのものなんだが、マア我慢して貰って、君達の推論を訂正する労だけも、買って貰うことにしよう。」と、まず検事に向い、「最初に君の自殺説だがそれが謬論だと云うことは、死体の最後の呼吸が証明している。知っての通り、気管を見事に切断しているのだが、犯人はすぐその場で短剣を引き抜かず、しばらく刺し込んだまま放置しておいたのだ[#「犯人はすぐその場で短剣を引き抜かず、しばらく刺し込んだまま放置しておいたのだ」に傍点]――その理由は後で話すがねえ。それで、気道がペタンと閉塞されるので、ちょうど絞殺のような具合になってしまった。無論解剖によらなければ、競合《せりあい》状態になっている二つのどっちが最終の死因だか判らないけれど、とにかくこの場合、出血が致死量に達する以前に、ラザレフが窒息で意識を失ってしまったことだけは確実なんだよ。その証拠には糞尿を洩らしているし、鞏膜《きょうまく》に溢血点が現われている。そこで重大な分岐点になるのは、最後の呼吸――すなわち刺される、いや君の説によると刺した瞬間前の呼吸が――吐いたか引いたかのいずれにありやなんだが、胸隔を見ると、それが吐息の直後になっている。つまり、それを問題にしなければならないのは、自殺者の定則として――と云うより人間の緊迫心理に、当然欠いてはならぬ生理現象があるからだよ。それはマイネルト等の説だが、末端動脈が烈しく緊縮して胸部に圧迫感が起るので、呼息《いき》を肺臓一杯に満たして不安定な感覚を除いてからでないと、意志を実行に移すことが不可能だと云うことなんだ。ところが、ラザレフの屍体にそれがないとすると、どうして空の肺臓が許したか疑問になって来るだろう。だから、その矛盾をかえって僕は、他殺の推定材料に挙げているのさ。」
「なるほど。」検事は率直に頷いたが、「すると、熊城君のルキーン説が確立されるわけかい。」
「ところが、そうじゃない。」法水は静かに微笑して、熊城に顔を近寄せた。「君の云う侏儒《こびと》の殺人にも、大いに異論がある。そこで最初に僕は、ラザレフの右半身に中風性麻痺が起らなかったと主張するよ。そして、その証拠として、死体の両腕の温度を挙げたいのだ。麻痺の起った部分は屍冷に等しい程冷たくなっていなければならないのだが、ラザレフの両腕を比較してみると、麻痺の軽くなった左腕は云うまでもないことだが問題の右腕にも均《ひと》しい温度で微《かす》かに体温が残っている。と云ったところでたぶん君は、皮膚の感触みたいな微妙《デリケート》なものに信頼は置けぬと云うだろうが、それならそれで、もう一つ適確に否定出来る材料がある。で、それを云う前に、君が芯だけになっていたと云う蝋燭の形に、もう少し具体的な説明が欲しいのだがね。」
 熊城はちょっと神経的な瞬きをしたが、
「無論僕は、あの手燭の実際について想像しているんだよ。知っての通り、残蝋が鉄芯の止金を越えて盛り上っている。だから、糸芯の周囲の蝋が全部熔け落ちてしまうと、芯が鉄芯にくっついて直立して、下端《した》のわずかな部分だけが、熔けた蝋に埋まると云う形になるだろう。」
「ウン、それには異議はない。僕にしろ幼い頃から飽きる程見せられている形だからね。そして君は、ちょうどそう云う状態の時吝嗇漢ラザレフはそれを吹き消して、その後にルキーンが扉を叩いた払暁《ふつぎょう》に、また使ったと云うのだね。しかし、それだけで焦痕を残さなかったものと証明しようとするのは、妙な用語だけれども、蝋燭の生理と云うものに全然不用意だからだよ。それに、百目蝋燭さえ使えそうなあの鉄芯の太さも、君は計算の基礎に加えていないのだ。」そうして法水は、該博な引証を挙げて繊密《せんみつ》きわまる分析を始めた。
「しかし、ここで僕がくどくど云うよりも、僕等の偉大な先輩が残した記録を紹介することにしよう。一八七五年と云えば、日本では違警罪布告以前で刑事警察の黎明《れいめい》期だ。ちょうど大蘇芳年《おおそよしとし》の血みどろな木版画が絵草紙屋の店頭を飾っていた邏卒《らそつ》時代なんだが、その頃ドナウヴェルト警察に、現在科学警察を率いている君よりも遙かに結構な推理力を備えた、ブェンツェルシェルデルップと云う警部がいたのだ。その警部が、やはり燃え尽きた大燭台の蝋燭の長さを推定して、それで一番嫌疑の深かった盲人を死線から救い上げたのだが、その時推理の根源をなしたものが、実に平凡きわまる、それでいて誰しもうっかり見逃してしまう点にあったのだ。それは鉄芯の温度なんだよ、元来蝋燭の芯は穴の左右いずれかに偏在しているものなのだから、ああ云う太い鉄芯で際まで燃えてくると、それから先は鉄芯に隔てられて、炎が十分反対側に届かなくなる。それで、蝋の燃焼が不均衡になって、急角度の傾斜が現われて来るのだ。つまり、一方は芯だけになっても、片側には幾分でも蝋が残っていなければならない。だが、そのまま燃え切らせてしまえば、鉄芯に熱が加わって灼熱して来るから、芯が落ちるまでには反対側の蝋もズルズル熔け落ちてしまうけれども……、芯だけになった時いったん消してその後時間を隔てて灯《とも》したとすると、あいにく今度は鉄芯が冷却している。だから、反対側の蝋も、ホンの僅かな間だけ燃える芯の下方に当る部分のみが熔けて、上端の部分はそのままの形で残るか、少なくとも蝋膜ぐらいは存在していなければならない。ところが、あの手燭には、鉄芯が真黒に燻《いぶ》っているだけで、蝋は完全に燃焼してしまってる。するとそれが、ホンのわずかでも蝋燭の形をしたものが残っていて、そのまま燃え終った証拠じゃないか。そして厭が応でも焼痕が残らなければならないのだ。」
 熊城は真蒼になって唇を慄わせたが、
「すると、そこに犯人の技巧《トリック》があるわけだね。」と検事は法水に口を措《お》かせなかった。
「ウン、そうだよ。で、実際を云うと、ラザレフの死体は直立していて炎の届かない位置にあったのだ[#「ラザレフの死体は直立していて炎の届かない位置にあったのだ」に傍点]。だから、そこに種《トリック》が必要なので、無論それが解ると、中風性麻痺を想像させて、君に自殺説を主張させ熊城君にルキーンの幻を描かせたところの死体の謎が、余すところなく清算されてしまうのだよ。ところで、それは一本の丈夫な紐なんだ。犯人は、それを把手《ノッブ》とその右寄りの板壁の隙間に挾んだ鍵との間に、六、七寸の余裕を残して張ったのだよ。だから、左手の不随なラザレフは床に手燭を置いて右手で把手《ノッブ》を廻してから、左の肩口で扉を押して出ようとしたのだが、あいにく扉は紐の間隔しか開かないから、出ようとした機《はず》みが半身になった肩口をスッポリその中に篏《は》め込んで、頭から右腕にかけて動けなくなってしまったのだ。それを犯人は外側から押えつけて、動きのとれない目標を目がけて返り血を浴びないよう悠々頸動脈を避け、落着いた一撃を下したのだが、その時すぐ兇器を引き抜かなかったのは、呻声《うめきごえ》を立たせないためで、そのままでしばし絶え行くラザレフの姿を眺めていたのだよ。無論そのうちに蝋燭は絶えてしまうので、紐を少し弛《ゆる》めると、ラザレフは腰に紐をかけて二つに折れてしまう。そして、絶命を見定めてから、さらに紐を弛めながら徐々にやんわり床へ下したのだから、屍体はちょうど跼《かが》んだような恰好《かっこう》になり、傷口も床の滴血の上へ垂直に降りて、流血の状態に不自然な現象は現われなかったのだ。しかも、自由な右手は全然運動の自由を欠いていたので、扉を掻き※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、153−上段8]《むし》ることさえ出来なかったんだぜ。そうすると熊城君、ルキーンのような一寸法師には、生れ変らなければ絶対にできない芸当だろう。つまり、ラザレフ殺害者の定義を云うと普通人の体躯を備えていて、非力なために尋常な手段では殺害の目的を遂げることの出来ない人物なんだが[#「普通人の体躯を備えていて、非力なために尋常な手段では殺害の目的を遂げることの出来ない人物なんだが」に傍点]、無論体力の劣性を補うばかりでなく、捜査方針の擾乱《じょうらん》を企てた陰険冷血な計画も含まれているのだ。だから、手口だけから見ると、ルキーンの幻が消えて、短剣《ダッガー》を握ったワシレンコの影が現われてくるのだよ。」
「ああ、彼奴じゃ駄目だ。歩いて出入する以外に術があるまい。」熊城は悲しげな溜息《ためいき》を吐いたが、法水の顔は更に暗く憂鬱だった。
「ウン、もう一押しと云うところなんだがねえ。それも、殺したらしいのと脱出し得るのと、そう模型《モデル》が二つ並んだことになるから、犯人は案外、この二つの特徴を備えた新しい人物かもしれないぜ。それとも、ここで何かすばらしい思いつきが発見《みつ》かれば、その結果ジナイーダにすべてが綜合されるか、あるいは、ワシレンコに出没の秘密が明らかにされるだろうが、とにかくルキーンはもう犯人の圏内にはない。すると熊城君、こうして今まで掴んだ材料には九分九厘まで説明がついたのだから、解決の鍵は残された一つに隠されていると云って差支えあるまい。つまり、機械装置を顛倒させて超自然に等しい鳴り方をした鐘声に、犯人の姿が描かれていることなんだ。……けれど、僕等はどうしても、ジナイーダの云うように死体を歩かせ、その手に振綱を引かさなければならないのだろうか!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78]」
 そうして、鐘声が単純な怪奇現象から一躍して、事件の主役を演ずることになった。熊城は戦慄を隠して強《し》いて気勢を張り、
「何にしろ、動機は結局あの置洋燈《おきランプ》だろうからね。僕は当分この寺院に部下を張り込ませておくつもりだよ。そして、次の機会《チャンス》に否応なくふん捕まえてやるんだ。それも、僕等の眼に見えない橋があるのだから、いつかきっとやって来るに違いないよ。」と云ったものの、彼には平素の精気が全然見られなかった。
 その頃から霙《みぞれ》が降り出して烈風がまじり、ちょうど昨日と同じ天候になったが、法水は人々を遠ざけて独り鐘楼に罩《こも》ったきりいつまでも出てこなかった。そして、その間彼の実験らしい鐘声が何度かしたけれども、ついに期待した一鳴りを聴くことが出来なかった。夕方になると、やっと法水は疲労しきった姿を
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