すように、厳しく云いつけられておりました。父なら盗み兼ねませんわ。」ジナイーダが恥入ったように嘆息するのを、熊城は得たり顔に頷いた。
「いずれ劇的《ドラマチック》な秘密のあることだろうがね。とにかく動機としての資格は充分にある。だけど法水君、そうなると、一人殺すも三人殺すも同じことになるがね。それだのに、どうして外側から下した鍵をそのままにして逃げ出したのだろう。」
「それが判れば犯人の目星がつくぜ。だが僕の想像するところでは、その原因が床の採光窓《あかりとり》だろうと思うね。ここから外壁の回転窓が見えるのだから、あれがちょうど階段の天井に当っているのだよ。だから、姉妹の誰か一人が金網をはずして硝子《ガラス》を踏み抜きさえすれば、犯人が迂回して窓の下に着く頃には、充分戸外へ飛び出してしまうことが出来る。つまり、明敏な犯人はそう云う危険な条件を悟って、昨夜は障碍《しょうがい》を一つ除いたのみに止めておき、さらに次の機会を狙うことにしたのだろうと思うね。」
 それから、法水はふたたびジナイーダに、
「ところで、鍵ですが、」と訊ねた。
「鍵は、父の室と兼用のものが一つしかないのです。そして、いつも父の室の花瓶の中に入れておくことに致しておりますが、どちらにも、夜分鍵を下す習慣はございません。とにかく、跫音と鐘声以外には、何も私達に触れたものがなかったことを御承知下さいまし。」
 が、そう云い終ると同時に、突然ジナイーダはかすかな呻声《うめきごえ》を発してクラクラと蹌踉《よろめ》いた。法水は危く横様《よこざま》に支えたが、額からネットリした汗が筋を引いて、顔面は蝋黄色を呈している。それがなんとなく、抗争する気力のまったく尽き果てた――犯罪者として最も惨《みじ》めな姿のように思われるのであるが……!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78]
 脳貧血を起したジナイーダを寝台に横たえてから、法水はイリヤを伴って鐘楼に出たが、その時S署員が、六時頃聖堂と十五六町程隔った地点で非常線に引っかかったと云う、三十がらみの露人を同行した旨を伝えて来た。デミアン・ワシレンコと云う名を聴くと、
「あ、とうとう、」とイリヤがルキーンと同じ言葉を呟いた。
「あの人は姉さんには大変な逆上《のぼ》せ方なんですから。でも、姉さんと云う人は、人間の一番人間らしいところにはてんで興味がないのですから、一寸法師でも綺麗なワシレンコでも、同じものにしか見えないでしょうよ。」
「すると、ワシレンコは姉さんの愛人ではないのですね。」
「それどころですか、」イリヤはちょっと蓮葉《はすっぱ》な云い方をして、「姉さんはルキーンが一番好きだと云っているくらいですわ。ですから、昨夜ルキーンとの結婚を拒んだのも、私には父に対する面当《つらあて》としか思われません。実は昨夜こうなんです。――父が姉の花婿にルキーンを選んだのは、そもそも一寸法師の貯金が目当だったからです。そして、内々でかなり貰っていたらしいのですが、姉にそれを打ち明けたのがつい一昨日《おととい》の話で、それから二日の間|執拗《しつこ》く付き纏《まと》って、結婚の実行を迫るのでした。けれども、姉は何と云われても一言も口をきかず、頑強に拒み続けて、父と争いながら夜になりました。すると、娘の飜心を絶望と見た父は、にわかに態度を変えて今度はルキーンに法外な金を要求するのです。無論二人の間に激論が沸騰して、一時はどうなるかと危ぶまれましたけども、折よくその場にルキーン宛の電報が舞い込んで来たので、それが、一時だけですが、危機を防ぎ止めてくれたのでした。」
 イリヤがペラペラしゃべってしまうのに、法水は少からず驚いたが、何となく先手をうたれる気がして、この女は単純なようで案外|莫迦《ばか》じゃないぞ――と思った。イリヤは続けて、
「姉と父の争いが一番激しかったのは、夕方五時頃のことでした。霙《みぞれ》が横殴りに吹き込んで来るのに、姉は振綱の下で満身に雪を浴びながら、いつまでも黙って父の顔を睨み付けているのです。それは物凄い形相でしたわ。」
「するとこれが、踏み躙《にじ》った婚礼の象徴《シンボル》なんですね。」法水はポケットから泥塗れに潰《つぶ》れた白薔薇《しろばら》を取り出して、「たぶん姉さんのでしょうが、この髪飾りが、振綱の下から五寸程のところに引っかかっていたのです。しかし、そう判れば、もうこれには用はありません。」と床に抛《ほう》り出してから、「だが妙ですな。嫌いでなければ結婚してもいいでしょうがね。」
「それは、真実《ほんとう》のことを云いますと、」イリヤはポウと頬を染めて、「私がルキーンを好いているのを知っているからでしょう。旧露字体《ヤッチ》のシラノは僧院の中から出て来るのですわ。」
「なるほど、面白い観察ですね。では、今度は階段の方を説明して下さい。」
 それから。調査が階段の外壁にある回転窓に移ると、熊城は、窓硝子の中央に太い朱線が横に一本引かれてあるのを見て、
「なるほど、この壁燈が点け放しになっていたのをルキーンは不審がったと云うけれども、その理由はたしかこの朱線にある。しかし、これがどうして外から見えねばならなかったのか?」
 法水は窓枠の埃《ほこり》をスイと撫でて、
「半分しか開かない!、 金具が錆びついているところを見ると、永らく開かれなかったと見えるな。それからイリヤさん、窓の下に引き込んである動力線らしいのは?」
 その太い二本の電線は、正門の側にある電柱まで一直線に伸びていて、その上には氷結した雪が載っていない。イリヤはその周囲全部に渉って説明を始めた。
「ええ、パイプ風琴《オルガン》があった頃の動力線なんです。それから、窓の上に三尺ばかりの鉄管が、電線と並行に突き出ていますでしょう。以前は式日になると、あれにロマノフ旗を結びつけたそうです。また、鉄管に絡んでいる裸線は、私のラジオのアンテナですわ。いつだったか、陸軍飛行機の報告筒が鐘楼の屋根に落ちたことがありまして、その時塔に上った兵隊さんに頼んで、先を十字架に引っ掛けて貰ったのです。サア、これだけ判ったら、私を放免して、姉さんの看病をさせてちょうだい。」
 鐘楼に戻ると、堂内担当の係員から報告がもたらされたが、それは――。両人の身体検査をしても芥子粒程の血痕さえ付着していないこと。振綱にも期待された着衣の繊維が発見されなかったこと。それから、礼拝堂の聖壇の下に間道が発見されたが、それには使った形跡がないばかりでなく、途中がまったく崩壊していて通行が絶対に不可能な事。そして最後に、指紋の無効果と、円蓋《ドーム》には烈風と傾斜とで霙《みぞれ》の堆積がないこと――などで、すべてが空しかった。
「鐘は曲芸的《アクロバチック》な鳴り方をするし、とうとう犯人の脱出した径路が判らなくなってしまった。それに、短剣を下から投げ上げたにしたところで、五尺とない塔の狭間《はざま》のどこかに打衝《ぶつ》かってしまうぜ。」検事は落胆《がっかり》した態で呟いたが、法水にぜひ訊かねばならないものがあった。
「さっき君はなぜ、ジナイーダが聴いた跫音にラザレフを想像したのだね。」
 法水の瞳がチカッと光ったが、彼は冴えない声を出した。
「それは、死体の左腕が内側に湾曲《まが》っていたからだよ。歩けるところを見ると、かなり軽度なもので、おそらく発病が眩暈《めまい》を起した程度だったろうが、ラザレフの左半身は中風性麻痺に罹《かか》っていて、それがほとんど軽快に近い症状だったのだ。麻痺が薄らいでいたと云う証拠には、腕が内側に捻《ねじ》れて指先が鉤《かぎ》形になっている。また、そう云う時には、肢《あし》を曲げるのに困難を覚えるので、あの跫音をそれと想像させた環状歩行が起って来るのだ。つまり、不自由な方の足を、趾《ゆび》先がガクッとならないように足掌《あしのひら》を斜めにして、内側から外方にかけて弧線を描きながら運ぶからだよ。すると、健康な脚を運んだ時しか音が立たないから、二足運んでも跫音は一つしか聴えない。だから、それに似た調子が連続して聴えたとしたら、当然ラザレフを想像するほかにないだろう。」
 ラザレフの左半身不髄であると云うことより、法水の理路整然たる推論に驚かされたが、
「なるほど、」と熊城は深く頤《あご》を引いて、「すると、振綱に瓦斯管が挾んである理由が判ったよ。半身のあまり自由でないラザレフは、あれに足を掛けて引く力を助けるのだ。」
「ウン、ところが熊城君、僕がズバリと云い当てたばかりに思いがけない収穫があったのだよ。」と法水の顔に紅潮《あかみ》が差して来た。「あの時ジナイーダの外見《みかけ》はすこぶる冷静だったけれども、内心ではそれが異常な衝動《ショック》だったのだ。もっともわれわれの心理には、ちょっとした恐怖を覚えると、ごくつまらないところで嘘を吐《つ》いてしまうものだが、とにかくどうであるにしろ、あの天使のような女の陳述の中に、一つ虚構の事実があったのだ。ねえ熊城君、ジナイーダはたしか自分のいた修道院がトラヴィスト派だと云ったね。しかし、真実《ほんとう》は、刷新カルメル教会派なんだぜ。」
「カルメル教会派って?」
「例の裸足《はだし》の尼僧団のことさ。裸足の上に、夏冬ともセルの服一枚で過し、板の上に眠るばかりか、絶対菜食で、昔は一年のうち八ヶ月は断食すると云う、驚くべき苦行が教則だったとか云う話だがねえ。」
「だが、どうしてそれが判ったね?」
「と云うのは、僕がさっき、自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや[#「自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや」に傍点]――と云ったっけね。その時ジナイーダは確かに驚いたらしい。無論僕のつもりでは、それを一つの脅迫的な比喩《ひゆ》として使ったに過ぎないのだが、しかしジナイーダを驚かせたのは、自分が犯人に擬せられたのを悟ったからではない。元来犯罪者と云うものは、そう云う点には予《あらかじ》め用意があるものだからね。では、なぜかと云うと、その一句の文章と云うのが、自身の不思議な夢幻状態を語った、カルメル派の創始者聖テレザの言葉だからだよ。西班牙《スペイン》の女はカルメンだけと思っちゃ間違いだぜ。その昔、神秘神学の一派を率いて、物体浮揚《レヴィテーション》や両所存在《ビロケーション》まで行ったと云う偉大な神秘家がいたのだ。それにもう一つ――これはまず日本に五百人と馴染《なじみ》のない顔だけど、聖テレザの後継者と呼ばれる僧モリノスの画像が、寝台の横手の壁にかかっていたからだよ。」
「そう云えば、確かに中世紀の修道僧らしい画像があったよ。」検事が合槌をうつと、
「ウン、そこでだ。ジナイーダが童貞女生活のうちに、どの程度までこの一派の修道を積んだか? また、なぜ嘘を云わねばならなかったか?――判らないけれども、」と云いかけて、法水は俄然厳粛な表情になった。「とにかく、ただ一人虚偽の陳述をしたと云う点だけでも、あの女が一番犯人に近いと云えるね。」
 熊城はびっくりして叫んだ。
「冗談じゃない。君は鍵のことを忘れてしまったのか。」
「それがさ。ここの扉口《とぐち》は回転窓もないし、下に隙もない。けれども、糸で鍵を操る術はヴァンダインの『ケンネル殺人事件』だけでつきちゃいないよ。君、お化け結びと云う結び方を知ってるだろう――一方の糸は喰い込む一方だが、片方のを引くと、スルリと解けてしまうのを。マア、実験すれば判ることだ。」
 法水は鍵の輪形をお化け結び[#「お化け結び」に傍点]で結んで、ラザレフの室の扉の前に立った。
「憶えておき給え。最初に鍵を差し込んで、もう一捻《ひとひね》りで棧が飛び出すと云う瀬戸際まで捻っておくんだ。そして、片方の糸を――解けない方だよ――把手《ノッブ》の角軸に結びつけないで二回り程|絡《から》めておいて、間をピインと張らせておく。それから、片方引くと解ける方のを鍵穴から潜《くぐ》らせて、それには幾分|弛《たる》みを持たせておくんだ
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング