梯子を下りかけていた妹娘のイリヤは、愕然《ぎょっ》としたように振り向いたが、警部の正服を見ると、すぐ険しい緊張を解いた。その六尺近い豊かな肉付きは、まさにアマゾンと云う形容であろう。そして、直線と角のまるでない平和な丸顔を見ると、邪気《あどけ》ない単純な性格らしく思われるが、ときどき顔の向けようによって、積極的な意志と細心な思慮を隠しているとしか思われない、深い陰影が作られるのだった。彼女は男のような幅のある声で姉を呼び、少しも動じた気色を見せない。
姉のジナイーダは寝台の下にある屎瓶《しびん》を布片で覆うてから、悠然と上って来たが、二七、八になるらしい彼女の神々しい美しさには、粗服の中にも聖ベアトリチェの俤《おもかげ》があった。それが、高い思索と叡智を語るものであることは云うまでもないが、全体の感じは妹とは違い非常に複雑で、侵し難い厳《おごそ》かさの中にも、脆《もろ》い神経的な鋭さと、瞑想めいた不気味なものとの両面が包まれているように思われた。それだけに、烈酷《れっこく》な実行力を認めることは出来なかった。しかし、これらの特徴以外に法水に注目されたのは、ジナイーダとルキーンとの対照がむしろ悲劇的に隔絶していることと、父の変死を伝えても、姉妹二人には睫毛《まつげ》の微動すら見られなかったことである。
「一昔前は神父フリスチァンと呼ばれた父が変死を遂げても、それが当然だと申さなくてはならないのですから……」ジナイーダは唇を歪めて、まず父親の死に冷たい嘲《あざけ》りの色を現わした。
「でも、御実父なのでしょう?」
「ところが、養父でございます。両親を一時に失った私ども二人は、慈愛深い神父フリスチァンの手許《てもと》に引き取られて、その後を実父にも優った愛《いつくし》みの下に育てられて参りました。イリヤは父の手許で、私は年頃になってから、かねての希望通り修道院に……。その頃、父はキエフの聖者と呼ばれておりましたのですが、」しかしジナイーダは、ピインと眉をはね上げて次の言葉に移った。
「ところが、一九二五年にいよいよ私のおりました僧院が破壊されたので、当時|巴里《パリー》に移っていた父のもとに戻らなければならなくなりました。すると、そこに以前とは似てもつかぬ父を見出したのでございます。ああ、なんたる変り方でしょう!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78] 父はいつの間にか、聖職を捨ててしまって、聖器類を売払った金を資本《もとで》に、亡命人《エミグラント》達の血と膏《あぶら》を絞っているのです。そして、無論私達に対する態度も、昔の父ではございませんでした。」
「あり得ることです。」法水は重たげに頷《うなず》いた。「革命の衝撃《ショック》ですよ。大戦後の性格の激変で、それが因《もと》で起った悲劇は、かなりな数に上っていると云う話ですからね。で、その後は?」
「それから父は、過去《すぎさ》った日の栄光《はえ》を、真黒に汚れた爪で剥《は》ぎ※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、138−下段14]《むし》って行きました。なかにも、わずかな金に眼が眩《くら》んだばかりに、ニコライ・ニコラエウィッチ大公のもとで例の『ジィノヴィェフの書翰《しょかん》』を偽造したぐらいですから。ですから、同志と不和を起して日本に渡った後も、やはり窮迫した人達を絞った金で、ここの堂守の株を買ったのでございます。サア、怨恨の心当りって!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78] そう云った日には、東京中の白露人全部が嫌疑者にならなくてはなりませんわ。あの貪欲と高い利息とでは、いくら勘忍強い神様でもお憎しみにならずにはいられないでしょう。ですから、現在の父を見て昔の高い感情を考えると、私にはどうしても、それが同じ人間だとは思われないのです。」
そこで、法水の質問はいよいよ本題に転じて行った。
「ところで、鐘の音をお聴きになったでしょうな。」
「ところが、それ以前に気味の悪いできごとがございまして。四時半頃眼が醒めると、階段の壁燈が点《とも》っているのです。父は御存知の通りなので、ルキーンが戻ったかなとも思いましたが、来れば鳴子が鳴るはずです。しかし、大して気にも留めずにいたところが、間もなくこの室の扉の前辺から離れて、コトリコトリと遠ざかって行く跫音《あしおと》が、鐘楼に起りました。」
「それには、何か特徴がありましたか?」
「それが、通例の歩き方で二歩のところが一歩と云う具合で、非常に一足ごとの間が遠いのです。何か考えながら歩いているようでした。」
「すると、妙なことになりそうですね。」そう云って法水は黙考に沈んだ。が、やがて顔を上げた時には、顔色が死人さながらに蒼《あお》ざめていた。「確かあなたは、お父さんの亡霊が歩いていたと云われるのでしょう。ですが、その一時間も前に、絶命が医学的に証明されているのですよ。」
まさに、心臓が一時に凝縮したと云う感じだった。それより、一体どこに推定の根拠があるのか?――法水の意外な言葉に、周囲《ぐるり》の人々はいっせいに驚かされた。が、ジナイーダだけは水のように静かだった。
「医学的にどうこうは、問題ではございません。この世界は、計り知れない神秘な暗号と象徴に充ちているのですから。私は、正しくそれが父だと信じております[#「正しくそれが父だと信じております」に傍点]。しかも、その音は非常に明瞭《はっきり》しておりまして、聴き誤まる惧《おそ》れは毛頭もなかったのです。またたとえそれが、肉体の耳では聴えぬ消された音であったにしても、必ずや私には、異ならない啓示となって現われたに違いございません。」
なんたる厳粛さであろう!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78] 法水もそれに酬《むく》いるかのよう、沈痛な声音で応じた。
「なるほど。しかし、ハインリッヒ・ゾイゼ(十三世紀|独逸《ドイツ》の有名な神学者)がしばしば見た耶蘇《イエス》の幻像と云うのは、その源が親しく凝視《みつ》めていた聖画にあったと云いますがね。それに、誰やらこう云う言葉を云ったじゃありませんか。――自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや[#「自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや」に傍点]――とね。」
最後の一句が終らぬうちに、ジナイーダの総身に細かい顫動《せんどう》が戦《おのの》いた。が、次の瞬間、彼女はカラカラと哄笑《たかわらっ》って、「これは驚きましたわね。私を犯人に御想像なさるとは恐縮ですわ。私達が現在父からどんな酷《ひど》い目にあわされていようと、孤児院から救ってくれた大恩を考えれば、そんなことなんでもないことですわ。この点をとくと御記憶下さいまし。それに、もう一つ法水さん、永い間|費《かか》って自然科学が征服したものと云うのが、カバラ教や印度《インド》の瑜伽《ユカ》派の魔術だけに過ぎないと云うこともね……」
法水は、神学《セオロジイ》との観念上の対立以外に、嘲笑を浴びたような気がしたが、ジナイーダは相手の沈黙を流眄《ながしめ》に見て、いよいよ冷静に語《ことば》を続ける。
「で、ともかく洋燈《ランプ》を点して、覗《のぞ》こうと致しますと、外側から鍵を下したと見えて、扉はビクとも致しません。そこで妹を起しましたが、二人とも恐怖のために、梯子を上って洋燈を消しに行くことさえ出来なかったのです。すると、そのうち程なく鐘が鳴り始めました。」
「それが妙なんですわ。」イリヤが口を挾んだ。「最初にゴーンゴーンと大鐘が鳴り出して、それから小鐘が始まったのですから。」
「エッ、なんですって!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78]」法水は一度で血の気を失ってしまった。ところが、ジナイーダも口を添えて、イリヤの前言を繰り返すのだった。
それこそ、文字通りの鬼気であろう。鳴鐘の機械装置はいかなる方法によっても、そう云う顛倒《てんとう》した鳴り方を許さぬのである。大体法水にしろ、鐘の鳴った原因を犯人の行動の一部に結びつければ、この事件には芥子粒《けしつぶ》程の怪奇もないと信じていた矢先に、イリヤの一言はたちどころに推理の論理的な進行を破壊してしまった。検事もブルッと身慄《みぶる》いして、
「そう云えば、たしかにそうだったよ。僕は大変なところをうっかりしていたもんだ。」
法水は堪らなくなったように扉の外に飛び出して、何度も鐘を振り仰いでいたが、それを見て、拡大鏡を振り廻していた一人の刑事が側に寄って来た。
「法水先生、鐘ですか? しかしあの大鐘は今も上って見たところですが、二三人かかって手で押したくらいでは、歯車があるのでビクともしませんぜ。また、内部の振錘《ふりこ》を手で動かしたにしたところで、音だけは妙に詰ったような鳴り方をしますが、肝腎《かんじん》の鐘が動かないのですから、振動を上の小鐘に伝えることが出来ないのです。」
「なるほど、すると、鐘を傾けるのは、振綱以外にないと云うのだね。いや有難う。」
法水はふたたび姉妹の室に戻ったが、こうして鐘の性能いっさいを知り尽してしまうと、もうこの上、鐘声の不思議を科学的に考察する余地はないと思った。第一それより、なにゆえ鳴らされねばならなかったか?――が判らなくなってしまった。それがもし犯人だとすれば、どうして自分自身の存在を曝《さら》け出すような危険を冒してまで、あえてする必要があったのだろうか?(それに安易《イージー》な解釈法を当てると、鐘が鳴った時、下の鐘楼には死体のほか誰一人いなかったと云う結論になってしまうのだ。)しかし死体になったはずのラザレフが歩いていたと云うジナイーダの言を考えると、肉体を離れた執拗な魂魄――ある種の動物磁気にすこぶる鋭敏だと云う説であるが――それを操って、跫音《あしおと》を現わし一方では、鐘を奇蹟的に動かした、一人の神現術者《セオソフィスト》が存在するのではないかとも思われる。だが、そう考えることは、彼にとってこの上もない屈辱だったのだ。やがて、法水は今までにない緊張をこめてジナイーダに問いを発したが、その内容は雑談以上のものとは思われなかった。
「時に妙な質問ですが、貴女《あなた》がいられた修道院と云うのは?」
「ハア、ビーンロセルフスクにありましたが、」
「すると、何派ですか。」
「トラヴィストでございます。」
「ああ、トラヴィスト。」それだけで法水の言葉がブッツリ杜絶《とぎ》れたが、その後数秒に渉《わた》って、二人の間に凄愴《せいそう》な黙闘が交されているように思われた。しかし、その時鑑識課員が姉妹の指紋を採りに入ってきたので、偶然緊迫した空気が解《ほぐ》れて、一同はやっと一息|吐《つ》くことが出来たのである。
その間、法水は側の置|洋燈《ランプ》を調べていたが、偶然注目すべき発見にぶつかった。そのナデコフ型置洋燈と云うのは、電燈普及以前|露西亜《ロシア》の上流家庭に流行《はや》ったもので、芯《しん》の加減|捻子《ねじ》がある部分にそれがなく、そこが普通型のものより遙かに大きく小大鼓形をしている。そして、鎧扉《よろいど》式に十数条の縦窓が開くようになっていて、そこから外気が入ると、上方の熱い空気との間に気流が起って、それが中央の筒にある弁を押して回転させ、徐々に芯を押し出すのである。しかし、法水に固唾《かたず》を呑ませたものは、この装置ではなく、安手の襟飾《ネクタイ》を継ぎ合せて貼ってある、台の底だった。彼が何の気なしにそれを剥がして見ると、内側の洋皮紙に――イワン・トドロイッチよりニコライ・ニコラエヴィッチ大公に贈る――と認められてあった。それを肩越しに見て、一人の外事課員が驚いたように云った。
「これですよ――四年程前|巴里《パリー》警察本部から移牒のありましたのは。大公の死後に、手ずから書かれた備品目録の中から、カライクの宝冠と皇帝《ツァール》の侍従長トドロイッチから贈られたこの置洋燈が紛失しているのです。」
「道理で、昼間はこれを寝台の下に隠
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