れて、法水の持つ懐中電燈が目まぐるしい旋回を続けていた。それがようやく一点に集注されると、ルキーンはアッと叫んでドドドッと走り寄った。半ば開かれた扉の間に、長身|痩躯《そうく》の白髪老人が前跼《まえかが》みに俯伏《うつぶ》して、頤《おとがい》を流血の中に埋めている。
「ああ、ラザレフ!![#「!!」は一文字、面区点番号1−8−75]」ルキーンはガクッと両膝を折って、胸に十字を切った。「フリスチァン・イサゴヴィッチ・ラザレフが……」

     二

「絶命しているのかい?」検事が片膝をつくと、法水は屍体《したい》の左手をトンと落して、
「ウン、咽喉《のど》をやられたんだ。兇器が屍体付近にないのだから、明白な他殺だよ。それに、こんな低温の中でまだ体温が残っているし、硬直が始まり掛けたところだからね。絶命はたぶん四時前後だろうが、その一時間後に鐘が鳴っているんだ。」と云ってからルキーンに、「君、開閉器《スイッチ》はどこだね?」と訊《たず》ねた。
「いや、鐘楼には電燈の設備がないのです。それから、姉妹には別条ないようですが。」
「それが、起きているのだから妙なんだよ。」検事が口を挾《はさ》んだ。「鳴子の音を聞いても返事しなかったのは、事によると、姉妹はこの事件のことを知っていて、僕等に妙な感違いをしたのかもしれないがね。」
「何にしても、それは大したことじゃない。しかし電燈がないと、明け切るまで待たなくてはならんな。」法水は悠長な言葉を吐いたが、さっそく検事に手配を依頼して、その最後に、警察医と本庁の課員以外は構内に入らせぬようにして欲しい――と云う旨を付け加えた。
 それから三十分後に、検事が警察医を伴って上ってくるまでは、暗黒の中で屍体を挾んだ二人の無言の行であった。ただルキーンが、
「やっぱりワシレンコだな。あいつも可哀そうに。」とかすかに呟くのを聴いたのみで、それを法水が問い返そうとした時、階段を上る跫音《あしおと》[#底本は「《あしあと》」と誤記]が聞えたのであった。しかしもうその時には、塔の上層に黎明《れいめい》が始まっていて、鐘群の輪郭が暈《ぼ》っと朧気《おぼろげ》に現われて来た。
「上の小鐘は暗くて判らんが、下にある大鐘だけは二つ見える。」警察医が屍体を検案している方には見向きもせず、法水は仰向いて独語した。「床から円蓋《ドーム》の頂点までが五|米《メートル》ぐらいか、それから鐘までも同じぐらいあるだろう。」
「そうです。」ルキーンが合槌を打った。「鐘は全部尖塔の頂にある窪《くぼ》みの中に隠れていて、大鐘の裾《すそ》が塔の窓にチョッピリ覗《のぞ》いているくらいなんですから、どんな暴風《しけ》にでもビクともしませんぜ。二つの大鐘の上に小鐘が八つあって、綱を引くと最初に小鐘が鳴り、続いて大鐘に及んで行く装置《しかけ》になっているのです。それから、鐘の横軸を支えている鉄棒は、頂辺《てっぺん》まで伸びて大十字架になっているんですよ。」
 法水は試みに綱を引いてみた。鐘は両手でやっと引ける程の重量だったが、果してルキーンの云う通り、最初小鐘が明朗たる玻璃《はり》性の音響を発し、続いて荘厳な大鐘が交った。彼はそれによって、鐘の鳴る順序が不変の機械装置によること、二つの大鐘がそれぞれ反対の方向へ交互に振動する――などを知った。それから少し経って、呼息《いき》が白い煙のように見え始めて来ると、今度はルキーンの服装に気がついた。帽子外套からズボンまですべて護謨《ゴム》引きの防水着で固め、しかも全身ずぶぬれである。
 やがて、警察医の報告が始まった。
「死後約二時間半と云うところでしょうな。兇器は洋式短剣《ダッガー》ですよ。創道は環状軟骨の左二|糎《センチ》程の所から最初刃を縦にして抉《えぐ》りながら斜《ななめ》上に突き上げているのですから気道は水平の刃で貫いてあります。そして、頸椎《けいつい》骨の第二椎辺をかすめた所が創底《きずそこ》になっているのですぞ。」
 それにいちいち点頭《うなず》きながら、法水は屍体の不自然な形状《かたち》を凝然と見下している。屍体は寝衣《ねまき》の上に茶色の外套を羽織り、腰を奇妙に鉾《ほこ》立ててしゃがんだ恰好《かっこう》のまま上半身を俯伏しているが、両手は水牛の角のような形で前方に投げ出し、指は全部|鉤形《かぎがた》に屈曲している。その傷口の下が、流れ出した血で湖水のような溜りだ。が、それには、周囲の床から扉の内側にかけてわずかな飛沫《ひまつ》が飛び散っているのみのことで、どこにも乱れた個所がない。無論それによって、格闘の跡は愚か、死体が刺された以後に動いた形跡のないことまで明白に立証されるのであるが、その推定をさらに裏書しているのが両手の指先であって、それには、傷口を押えたと見なければならぬ血痕が付着していないのである。――そして、鐘楼にはその一円以外に、付着した血痕の存在が発見されず、兇器を捜した検事も空しく戻って来た。
「どうも解《げ》せんな。気管を切断されただけで雷撃的に即死するはずはないが、」法水はそう呟いて、死体の頭髪を掴みグイと引き上げた。「大体創道を見給え。こう云う方向から行われているのは、これまでの短剣殺人にはかつて例のなかったことだよ。しかも、沈着巧妙に頸動脈を避けて、たった一突きだぜ。それがまた、この奇妙な鉾立腰《ほこだてごし》にぶつかると、一体犯人がどんな姿勢で突いたのだか?――すっかり判らなくなってしまうのだよ。それから、顔面が無残な苦痛で引ん歪《ゆが》んでいるにもかかわらず、たとえ十数秒の間でも床上を輾転反側した跡がない。無論手足に痙攣《けいれん》らしいものが見えるけれども、それには明確に表出がないのだ。すると支倉《はぜくら》君、君はこれを見てどう思うね?」
 検事は答えられなかったが、法水がいちいち指摘する屍体の不可解な点に、早くもこの事件の底深い神秘が現われているように思った。法水はそれから屍体の両腕に視線を落し、それを交互に掴んで、何か比較するものがあったらしかったが、続いて両眼を詳しく調べて、
「溢血点《いっけつてん》があるな。」と呟くと、今度は屍体を仰向けにした。すると、股下の辺《あた》りから――ちょうど閾《しきい》から一寸程下った所に当るのだが――真鍮製《しんちゅうせい》の手燭が現われた。それは、直径五寸ばかりの鉢型をしたもので、堆《つい》状の火山型をした残蝋《ざんろう》が鉄芯《てつしん》の受金を火口底のようにして盛り上っている。そして、その間から百目|蝋燭《ろうそく》にも使えそうな太い鉄芯が、真黒に燻《くすぶ》ってニョッキリ突き出ていて、燃え尽きた芯がその裾の方で横倒しになっていた。ところが、手燭のあった辺の着衣を調べると、焦痕は愚かやや水平から突出している鉄芯の痕《あと》らしいものさえ見出されないのである。それも後で差込んだものでないことは、床から手燭の裾にかけて、微《かす》かながら血の飛沫《ひまつ》があるので明瞭だった。
「何だい? 大変な執念じゃないか。」手燭を置くと、法水の眼がふたたび屍体の両腕に引かれて行くので、検事は訊《き》かざるを得なくなった。
「ウン、左腕が内側へ曲っているだろう。今に君は、それが非常に重大な点だと云う理由が判るよ。」それから法水はルキーンを見て、
「君が昨夜ここを出る時に、この蝋燭《ろうそく》がどのぐらいの長さだったか憶《おぼ》えているかね?」
「さよう、五|分《ぶ》ばかりでしたかな。しかし、その後にラザレフが使ったかもしれません。」
 法水は困ったような表情をしたが、すぐ着衣を脱がして屍体の全身を調べ始めた。微かに糞尿を洩らしているだけで、外傷はもちろん軽微な皮下出血の跡さえ見られない。が、腹の胴巻には札《さつ》らしい形がムックリ盛り上っている。
「これです。」ルキーンは忌々《いまいま》し気《げ》に云った。「これがラザレフ唯一の趣味なんですよ。守銭奴《シャイロック》です。こいつは。だから、可哀そうなもんですぜ。電燈料を吝《おし》んでいるのですから、姉妹二人とも薄暗い石油|洋燈《ランプ》の光で、それも、少しでもながくともせば、こいつが大騒ぎなんです。」
 屍体の検案を終ると、法水はラザレフの室に入って行った。その室は、礼拝堂の円天井と鐘楼の床に挾《はさ》まれた空隙を利用しているので、梯《てい》状に作られてあった。扉に続いて二坪程の板敷があり、それから梯子《はしご》で、下の寝室に下りるようになっている。そこには、姉妹の室で見たと同じ採光窓《あかりとり》が床にあいていて、その上を太い粗目《あらめ》の金網で覆うてあった。こう云う奇妙な構造と云い、また、この室の存在が外部からは全然想像されないのを見ても、その昔白系華やかなりし頃には、恐らく秘密な使途に当てられていたらしく思われた。しかし、室内は整然としていて、結局法水は何物にも触れることが出来なかった。
 それから、向う側にある娘達の室へ行くまでに、一つの発見があった。と云うのは、礼拝堂の円天井に当る部分の中央の床に、二個所|彩色硝子《ステインドグラス》の採光窓があいていて、そこから振綱の下にかけて、わずかではあるが、剥《は》がれ落ちたらしい凝血の小片が散在していることであった。しかし、法水はそれには一|瞥《べつ》をくれただけで、振綱の下から三尺程の所を不審げに眺めていた。そこには、短い瓦斯《ガス》管が挾んであるのだが、やがて彼は、その下から何物かを抜き取ると、それを手早くポケットに収め、そのままスタスタ歩き出した。姉妹の室の扉には掛金が下りていて、しかも鍵は、鍵穴の中に突っ込まれたままになっている。
「鍵にはないけども、」そう云って、検事は扉の前方の床に、わずか飛散している血粉を指摘した。「して見ると、始末の不完全な手で、犯人はよほど複雑な動作をしたと見えるね。」
 そこへドヤドヤ靴音がして、外事課員まで網羅した全機能を率いて、捜査局長|熊城卓吉《くましろたくきち》が肥躯《ひく》を現わした。法水は頓狂な声をあげて、
「いよう、コーション僧正!」
 しかし、熊城の苦笑は半ば消えてしまい、側のルキーンを魂消《たまげ》たように瞶《みつ》めていたが、やがて法水の説明を聴き終ると容《かたち》を作って、
「なるほど、純粋の怨恨以外のものじゃない。手口に現われた特徴も、犯人が相当の力量を具えた男――と云う点に一致しているよ。」ともったいらしく頷《うなず》いた。そして、さっそく部下に構内一帯に渉る調査を命じたが、程なく堂外の一隊を率いた警部が、ひどく亢奮《こうふん》して戻ってきた。
「実にどうも、得体が判らなくなりまして。最初入った貴方《あなた》がた三人以外に、足跡がないのですからな。昨夜《ゆうべ》は二時頃に降りやんでいるのですから、凍った霙《みぞれ》の上についたものなら、われわれでなくとも子供でさえ判らなけりゃなりません。それから兇器は、裏門側の会堂から二十|米《メートル》程離れた所で、落ちていた紙鳶《たこ》を突き破っていたのです。」
 そう云って、警部は一振りの洋式短剣《ダッガー》を突き出した。銅製の鍔《つば》から束《つか》にかけて血痕が点々としていて、烏賊《いか》の甲型をした刃の部分は洗ったらしい。それがラザレフの所有品で、平生扉の後の棚の上に載せてあることが、すぐルキーンによって明らかにされた。そして、紙鳶は比較的最近のものらしい二枚半の般若《はんにゃ》で、糸に鈎切《かんぎり》がついていた。
「まさか、使者神《マーキュリー》の靴を履《は》いたわけじゃあるまいよ。」法水が動じた気色を見せなかったように、他の二人も、足跡を残さずにすむ脱出径路と不可解な兇器の遺留場所を解くものが、漠然と暗示されているような気がして、必ずや鐘楼内から、それを鑑識的に証明するものが、現われるに違いないと信じていた。だから、熊城はむしろ部下の狼狽振りに渋面を作ったほどで、さっそく法水に姉妹への訊問を促した。
 扉が開かれてまず眼に映ったのは、この室の構造がラザレフの室と同一であると云うことだった。その時
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング