いつも父の室の花瓶の中に入れておくことに致しておりますが、どちらにも、夜分鍵を下す習慣はございません。とにかく、跫音と鐘声以外には、何も私達に触れたものがなかったことを御承知下さいまし。」
 が、そう云い終ると同時に、突然ジナイーダはかすかな呻声《うめきごえ》を発してクラクラと蹌踉《よろめ》いた。法水は危く横様《よこざま》に支えたが、額からネットリした汗が筋を引いて、顔面は蝋黄色を呈している。それがなんとなく、抗争する気力のまったく尽き果てた――犯罪者として最も惨《みじ》めな姿のように思われるのであるが……!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78]
 脳貧血を起したジナイーダを寝台に横たえてから、法水はイリヤを伴って鐘楼に出たが、その時S署員が、六時頃聖堂と十五六町程隔った地点で非常線に引っかかったと云う、三十がらみの露人を同行した旨を伝えて来た。デミアン・ワシレンコと云う名を聴くと、
「あ、とうとう、」とイリヤがルキーンと同じ言葉を呟いた。
「あの人は姉さんには大変な逆上《のぼ》せ方なんですから。でも、姉さんと云う人は、人間の一番人間らしいところにはてんで興味がないのですから
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