と》にいる彼等にも判然と聴き取れるので……、今か今かと待つうちにも、よほどの時間が経過してしまった。
「ただごっちゃないぞ。」奥歯をギリリと鳴らして、検事が綱から手を放すと、その手に法水は合鍵の束を与えた。そして、七本目がようやく合って、扉《ドア》が開かれた。
 法水の細心な思慮は、いち早く階段を駈け上ろうとする二人を引き止めて、まず検事に、今入った入口の扉際で張り番をさせ、自分はルキーンを伴って、階下の室々を調べ歩いた。荒れるに任せた礼拝堂は、廃墟のような風景であった。円天井《まるてんじょう》の下には、十ばかり聖像《アイコン》があるのみで、金色燦然たる天主教の聖器類は影も形もなく、装飾箔を剥がした跡さえ所々に残っていた。法水の調査は、便所と急造の炊事場を最後に終ったが、どこにも人影は愚か、異状らしい個所は発見されなかった。
 検事のいる扉際に戻ると、法水は鐘楼に出る左側の階段を上り、検事とルキーンは右側のを上って行った。
「これが解せないのですよ。」緩く迂回《うかい》しながら伸びている階段の中途の壁に、点《つ》け放しになっている壁燈《かべあかり》を見て、ルキーンが云った。「戸外《そと》から見た時、明るい窓が一つあったでしょう。それがこっち側の回転窓を通して見た、この壁燈の光なんです。点《つ》け放しなんて――こんなことは、ラザレフの吝嗇《けちんぼ》が狂人にでもならなけりゃ、てんでありっこないのですがね。」
 その時、検事がルキーンの袖を引き、無言で天井の床を指差した。そこには硝子《ガラス》窓の明り取りが開いていて、背の高い検事には、そこから、静止している二人の女の裸足が見える。寝台にならんで腰を下しているらしい。ルキーンは二三段跳び上って、
「アッ、影が動きましたぜ。してみると、姉妹には別条ありません。ヤレヤレ、飛んだ人騒がせだったぞ。いや、たぶん鐘声などにも、案外下らない原因があるのかもしれませんよ。」
「それにしても、起きているくせに、さっきはどうして応《こた》えなかったのだろう。」検事は腑《ふ》に落ちぬらしく呟《つぶや》いたが、ルキーンはなぜか急に当惑気な表情を泛《うか》べて、答えなかった。
 鐘楼はまったくの闇だった。上方から凍えた外気が、重たい霧のように降《ふ》り下って来る。二人の前方|遙《はる》か向うには、円形の赭《あか》い光の中に絶えず板壁の羽目が現われて、法水の持つ懐中電燈が目まぐるしい旋回を続けていた。それがようやく一点に集注されると、ルキーンはアッと叫んでドドドッと走り寄った。半ば開かれた扉の間に、長身|痩躯《そうく》の白髪老人が前跼《まえかが》みに俯伏《うつぶ》して、頤《おとがい》を流血の中に埋めている。
「ああ、ラザレフ!![#「!!」は一文字、面区点番号1−8−75]」ルキーンはガクッと両膝を折って、胸に十字を切った。「フリスチァン・イサゴヴィッチ・ラザレフが……」

     二

「絶命しているのかい?」検事が片膝をつくと、法水は屍体《したい》の左手をトンと落して、
「ウン、咽喉《のど》をやられたんだ。兇器が屍体付近にないのだから、明白な他殺だよ。それに、こんな低温の中でまだ体温が残っているし、硬直が始まり掛けたところだからね。絶命はたぶん四時前後だろうが、その一時間後に鐘が鳴っているんだ。」と云ってからルキーンに、「君、開閉器《スイッチ》はどこだね?」と訊《たず》ねた。
「いや、鐘楼には電燈の設備がないのです。それから、姉妹には別条ないようですが。」
「それが、起きているのだから妙なんだよ。」検事が口を挾《はさ》んだ。「鳴子の音を聞いても返事しなかったのは、事によると、姉妹はこの事件のことを知っていて、僕等に妙な感違いをしたのかもしれないがね。」
「何にしても、それは大したことじゃない。しかし電燈がないと、明け切るまで待たなくてはならんな。」法水は悠長な言葉を吐いたが、さっそく検事に手配を依頼して、その最後に、警察医と本庁の課員以外は構内に入らせぬようにして欲しい――と云う旨を付け加えた。
 それから三十分後に、検事が警察医を伴って上ってくるまでは、暗黒の中で屍体を挾んだ二人の無言の行であった。ただルキーンが、
「やっぱりワシレンコだな。あいつも可哀そうに。」とかすかに呟くのを聴いたのみで、それを法水が問い返そうとした時、階段を上る跫音《あしおと》[#底本は「《あしあと》」と誤記]が聞えたのであった。しかしもうその時には、塔の上層に黎明《れいめい》が始まっていて、鐘群の輪郭が暈《ぼ》っと朧気《おぼろげ》に現われて来た。
「上の小鐘は暗くて判らんが、下にある大鐘だけは二つ見える。」警察医が屍体を検案している方には見向きもせず、法水は仰向いて独語した。「床から円蓋《ドーム》の頂点までが五|米《メート
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