ル》ぐらいか、それから鐘までも同じぐらいあるだろう。」
「そうです。」ルキーンが合槌を打った。「鐘は全部尖塔の頂にある窪《くぼ》みの中に隠れていて、大鐘の裾《すそ》が塔の窓にチョッピリ覗《のぞ》いているくらいなんですから、どんな暴風《しけ》にでもビクともしませんぜ。二つの大鐘の上に小鐘が八つあって、綱を引くと最初に小鐘が鳴り、続いて大鐘に及んで行く装置《しかけ》になっているのです。それから、鐘の横軸を支えている鉄棒は、頂辺《てっぺん》まで伸びて大十字架になっているんですよ。」
 法水は試みに綱を引いてみた。鐘は両手でやっと引ける程の重量だったが、果してルキーンの云う通り、最初小鐘が明朗たる玻璃《はり》性の音響を発し、続いて荘厳な大鐘が交った。彼はそれによって、鐘の鳴る順序が不変の機械装置によること、二つの大鐘がそれぞれ反対の方向へ交互に振動する――などを知った。それから少し経って、呼息《いき》が白い煙のように見え始めて来ると、今度はルキーンの服装に気がついた。帽子外套からズボンまですべて護謨《ゴム》引きの防水着で固め、しかも全身ずぶぬれである。
 やがて、警察医の報告が始まった。
「死後約二時間半と云うところでしょうな。兇器は洋式短剣《ダッガー》ですよ。創道は環状軟骨の左二|糎《センチ》程の所から最初刃を縦にして抉《えぐ》りながら斜《ななめ》上に突き上げているのですから気道は水平の刃で貫いてあります。そして、頸椎《けいつい》骨の第二椎辺をかすめた所が創底《きずそこ》になっているのですぞ。」
 それにいちいち点頭《うなず》きながら、法水は屍体の不自然な形状《かたち》を凝然と見下している。屍体は寝衣《ねまき》の上に茶色の外套を羽織り、腰を奇妙に鉾《ほこ》立ててしゃがんだ恰好《かっこう》のまま上半身を俯伏しているが、両手は水牛の角のような形で前方に投げ出し、指は全部|鉤形《かぎがた》に屈曲している。その傷口の下が、流れ出した血で湖水のような溜りだ。が、それには、周囲の床から扉の内側にかけてわずかな飛沫《ひまつ》が飛び散っているのみのことで、どこにも乱れた個所がない。無論それによって、格闘の跡は愚か、死体が刺された以後に動いた形跡のないことまで明白に立証されるのであるが、その推定をさらに裏書しているのが両手の指先であって、それには、傷口を押えたと見なければならぬ血痕が付着していないのである。――そして、鐘楼にはその一円以外に、付着した血痕の存在が発見されず、兇器を捜した検事も空しく戻って来た。
「どうも解《げ》せんな。気管を切断されただけで雷撃的に即死するはずはないが、」法水はそう呟いて、死体の頭髪を掴みグイと引き上げた。「大体創道を見給え。こう云う方向から行われているのは、これまでの短剣殺人にはかつて例のなかったことだよ。しかも、沈着巧妙に頸動脈を避けて、たった一突きだぜ。それがまた、この奇妙な鉾立腰《ほこだてごし》にぶつかると、一体犯人がどんな姿勢で突いたのだか?――すっかり判らなくなってしまうのだよ。それから、顔面が無残な苦痛で引ん歪《ゆが》んでいるにもかかわらず、たとえ十数秒の間でも床上を輾転反側した跡がない。無論手足に痙攣《けいれん》らしいものが見えるけれども、それには明確に表出がないのだ。すると支倉《はぜくら》君、君はこれを見てどう思うね?」
 検事は答えられなかったが、法水がいちいち指摘する屍体の不可解な点に、早くもこの事件の底深い神秘が現われているように思った。法水はそれから屍体の両腕に視線を落し、それを交互に掴んで、何か比較するものがあったらしかったが、続いて両眼を詳しく調べて、
「溢血点《いっけつてん》があるな。」と呟くと、今度は屍体を仰向けにした。すると、股下の辺《あた》りから――ちょうど閾《しきい》から一寸程下った所に当るのだが――真鍮製《しんちゅうせい》の手燭が現われた。それは、直径五寸ばかりの鉢型をしたもので、堆《つい》状の火山型をした残蝋《ざんろう》が鉄芯《てつしん》の受金を火口底のようにして盛り上っている。そして、その間から百目|蝋燭《ろうそく》にも使えそうな太い鉄芯が、真黒に燻《くすぶ》ってニョッキリ突き出ていて、燃え尽きた芯がその裾の方で横倒しになっていた。ところが、手燭のあった辺の着衣を調べると、焦痕は愚かやや水平から突出している鉄芯の痕《あと》らしいものさえ見出されないのである。それも後で差込んだものでないことは、床から手燭の裾にかけて、微《かす》かながら血の飛沫《ひまつ》があるので明瞭だった。
「何だい? 大変な執念じゃないか。」手燭を置くと、法水の眼がふたたび屍体の両腕に引かれて行くので、検事は訊《き》かざるを得なくなった。
「ウン、左腕が内側へ曲っているだろう。今に君は、それが非常に重大な
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