一寸法師[#底本では「一寸法帥」と誤記]のマシコフと云う、寄席の軽業芸人なんで。」
「ああ、侏儒《こびと》のマシコフ!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78]」法水には、かつて彼を高座で見た記憶があった。特に強い印象は、重錘揚《じゅうすいあげ》選手みたいに畸形《きけい》的な発達をした上体と、不気味なくらい大きな顔と四|肢《し》の掌《ひら》で、肩の廻りには団々たる肉塊が、駱駝《らくだ》の背瘤《せこぶ》のように幾つも盛り上っていた。年齢は法水と同様三七、八がらみ、血色のよいヤフェクト風の丸顔で額が抜け上り、ちょっと見は柔和な商人体の容貌であるが、眼だけは、切目《きれめ》が穂槍《ほやり》形に尖っていて鋭かった。
その時、二人を発見して歩み寄ってきた検事が、不意に背後から声を掛けた。
「一体こんな時刻に、どうしてこの辺を彷徨《うろつ》いているのだね。僕は地方裁判所の検事なんだが。」
「実は、飛んだ罪な悪戯《いたずら》をした奴がおりましてな。」不意を喰って愕然《ぎょつ》と振向いた態《かたち》のままで、ルキーンは割合平然と答えた。
「皇帝《ツァール》への忠誠一筋で、うっかり偽電報を信用したばかりに、あたらの初夜を棒に振ってしまいましたよ。」
「初夜!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78]」検事は唆《そそ》られ気味に問い返した。
「さよう、不具者《かたわもの》の花嫁は、ここの堂守ラザレフの姉娘ジナイーダなのです。無論われわれには式なんぞありませんが、いよいよ最初の夜が始まろうと云う矢先でした。かれこれ十一時頃だったでしょうか、皮肉なことに、突然同志から電報が舞い込んできて、二時までに豪徳寺駅付近の脳病院裏へ来い――と云います。しかし、結局私には、寝室の歓楽よりも同志の制裁の方が怖ろしかったのです。それで、厭々《いやいや》出掛けましたよ。」
「同志とは?」検事は職掌柄聴き咎《とが》めた。
「新しい白系の政治結社です。それに、レポとしての私の体《からだ》には、先天的に完全な隠身術が恵まれています。これは公然《おおびら》に申し上げてもよいことでしょう。」ルキーンは傲然《ごうぜん》と志士気取りに反《そ》り返った。「何しろ、お国のある方面から非常な援助を頂いているのですからなア。怖ろしいのはGPU《ゲーペーウー》の間諜網だけですよ。」
「なるほど、トロツキーが驢馬《ろば》の脳髄と云っただけのことはあるね。」法水が皮肉に笑うと、ルキーンはちょっと厭な顔をしたが、先を続けた。
「ところがどうでしょう。霙の中に二時間余り曝《さら》されていても、脳病院の裏には人っ子一人来ないのです。そこで始めて、あの電報が、私の幸福を嫉《そね》んだ悪党の仕業だったと云うことが判りました。そして、歩いて帰るよりほかに方法がなくなってしまったのです。」
「しかし、君はそんなに疲れている癖に、現在僕の前へは鉄砲玉のように飛び出したじゃないか。」法水は叩きつけるような語気で云った。
「鐘の音を聴いたからです。われわれの同志の間では、刻限はずれの鐘を変事の警報にしているのです。」ルキーンは身体《からだ》を焦《いら》だたし気にもじらせて、声を慄《ふる》わせた。「鳴ったと思うとすぐやんでしまったのと云い、あの弱々しい音を考えると、なんだか私には、鐘の振綱に触れた手を、理不尽に横合いから遮られたような気がするのです。つまり、すでに行われた変事の発見ではなくて、異変の進行中に鳴らされた救助信号ではないかと思うのです。しかも、それ以前に私は、偽電報で釣り出されています。」
「行こう」検事はたまりかねて叫んだ。「なるほど、鴉《からす》や鳶《とび》ぐらいでは、あの鐘はビクともしないぜ。」
不思議な侏儒《こびと》ルキーンの出現は、それまで多寡《たか》を括《くく》っていた、法水の鐘声に対する観念を一変させた。そして彼は、凄惨な雰囲気の中に、一歩踏み入れたような気がした。…少なくとも、鐘声と一寸法師[#底本では「一寸法帥」と誤記]とが偶然の逢着でさえなければ、因果関係の結論として、いかなる形体《かたち》にせよ、聖堂の中へ残されたものがなければならない。凍った地面がバリバリ砕けて、下の雪水が容赦なくはねかかった。やがて、幾百と云う氷柱《つらら》で薄荷糖《はっかとう》のように飾り立った堂の全景が、朧気《おぼろげ》に闇の中へ現われた。
出入口の把手《ノッブ》を捻《ねじ》ってみると鍵が下りているので、ルキーンは検事を振り仰いで、
「一つ、そこに下っている綱を引っ張ってみて下さい。それで鳴る鳴子《なるこ》が親爺《おやじ》の方にも娘の方にも、両方の室にあるのですから。」
ところが、検事が懸命に引く鳴子に対して、内部《なか》から誰一人応ずるものがない。そのくせ、内部で鳴っている音が、戸外《そ
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