現わして、
「熊城君、君の成功を祈るよ。だけど、その時もし犯人の捕縛が出来なかったら、姉妹の誰か一人に云って、僕の事務所にナデコフの置洋燈を持って寄越させてくれ給え。」
そして、霙の中を帰って行ったが、その一時間程後に、扉の外でふたたび彼の声がした。
「法水だがねえ。すまないが、回転窓の朱線を消して、壁燈をつけてくれ給え。」
壁燈を点《つ》けに行った刑事の一人が、何気なく窓の外を見ると、中空に浮んだ一枚の紙鳶《たこ》が、暗夜の帆船のようにスウッと近づいて来る。――ああ、法水はなにゆえに、壁燈をつけて朱線を消し、紙鳶を上げたのだろうか?
ところが、その夜法水は何時になっても、寝ようとせず、眼に耳に神経を集めて、何物かを見、あるいは聴き取らんとするかのごとくであった。果して彼は、夜半一時頃聖アレキセイ寺院の鐘声を聴いた。しかも、始めにゴーンと大鐘が鳴り出して……聖堂の神秘と恐怖がふたたび夜空を横切って行ったのであるがそれを聴くと、なぜか彼はニッと微笑《ほほえ》んで、それから昏々と睡り始めたのである。
四
翌日の正午頃、置洋燈をかかえてイリヤがやって来た。
「昨夜は大変な騒ぎだったそうですね。」
「ええ、でも捕らないのはなぜでしょう。入ったのが明らかなのに、足跡はないし、鐘があんな鳴り方をするなんて。」
「当然《あたりまえ》ですよ。ありゃあ僕が鳴らしたのですから。それで、ラザレフ事件は解決されました。」とびっくりしたイリヤを尻眼にかけて、法水は置洋燈の底から一通の封書を取り出した。
「すると、もしや姉が……?。」
「そうです。姉さんの告白書です。」法水はさすが相手の顔を直視するに忍びなかったが、イリヤはそれを聴くと、全身の弾力を一時に失って椅子の中へ蹌踉《よろ》めき倒れ、しばらくあらぬ方をキョトンと※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、154−下10]《みは》っていた。その間、法水は告白書に眼を通していたが、程なくイリヤは我に返って、歔欷《すすりなき》を始めた。
「信ぜられませんわ。姉さんはなぜ大恩のある父を殺さなければならなかったのでしょう?」
「それは、ある強い力が、姉さんを本能的に支配しているからですよ。」そして法水は、特に刺激的な用語を避けて、ジナイーダの犯罪動機を語り始めた、「私は、あの人がカルメル教会派の童貞女だったと云うことを知った時に、あの美しい皮一重の下に、戒律のためには父と名のつく人をさえ殺しかねない頑迷な血が培《つちか》われているのを知りました。御承知の通り童貞女は、天主の花嫁であることのためにあらゆるものを賭してまで争わねばなりません。しかし、一朝現世との間の鉄壁が崩壊したら、どうなりましょう。そうなった場合に、天主の花嫁達が新しい生活の中でどんなに苦しまねばならないか――考えてみて下さい。まして、課せられた試練を耐え忍んでいるうちに、童貞女はその奇怪な生活に一種の英雄澆望主義《ヒロイズム》を覚えるようになります。また、一方身体的に云うと、清貧と貞潔の名に隠れた驚くべき苦業が、かえって被惨虐色情症《マゾヒズムス》的な肉感を誘発して来るのです。そして、自然の法則にそむく苦痛の中に、天主の肌と愛撫の実感を描かせるのですよ。しかしそうなると、清純な処女にありがちの潔癖――と云うだけでは許されなくなります。明白な精神|障礙《しょうがい》です。で、姉さんの場合もちょうどそれと同じで、不幸にもそこへラザレフがルキーンとの結婚を強要したのですから、神を涜《けが》すよりはと、養父の咽喉に刃を突き立てたのですよ。でも、一時は恐らく、パウロが云った――修道生活は優れた生活ではあるが義務ではない――と云う言葉などで、ひどく悩んだことでしょうが、結局根強い偏執のためには敵すべくもなかったのです。ところで、告白書の中にこう云う一節があります。――軟骨と云うものは妙な手応えがするものですわね。けれどもそれを感じた瞬間、童貞女のみが知る気高い神霊的な歓喜を、養父を殺《あや》める苦悩の中でしみじみ味わされました――と云うのですよ。すると、何が養父ラザレフを殺させたか判然《はっきり》お解りになったでしょう。それを一口に云うと、もう一つパウロの言葉を例に引きますが、家庭の義務に心を分けられざりし一人が、不幸にも革命の難をうけてふたたび家庭に戻ったため、起った悲劇なのですよ。」
この陰惨な動因に、イリヤは耳を覆いたかったであろう。閉じた瞼が絶え間ない衝動で顫《ふる》えていた。法水はやっと解放された思いで、説明を殺人方法に移した。
「ところが、驚いたことに、姉さんの犯罪にはその方法と動機とが、ちょうど二重人格的な対比を示しているのです。あの蒙迷固陋《もうめいころう》な宗教観に引き換えて、犯行の実際には真にすばらし
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