ウン、それには異議はない。僕にしろ幼い頃から飽きる程見せられている形だからね。そして君は、ちょうどそう云う状態の時吝嗇漢ラザレフはそれを吹き消して、その後にルキーンが扉を叩いた払暁《ふつぎょう》に、また使ったと云うのだね。しかし、それだけで焦痕を残さなかったものと証明しようとするのは、妙な用語だけれども、蝋燭の生理と云うものに全然不用意だからだよ。それに、百目蝋燭さえ使えそうなあの鉄芯の太さも、君は計算の基礎に加えていないのだ。」そうして法水は、該博な引証を挙げて繊密《せんみつ》きわまる分析を始めた。
「しかし、ここで僕がくどくど云うよりも、僕等の偉大な先輩が残した記録を紹介することにしよう。一八七五年と云えば、日本では違警罪布告以前で刑事警察の黎明《れいめい》期だ。ちょうど大蘇芳年《おおそよしとし》の血みどろな木版画が絵草紙屋の店頭を飾っていた邏卒《らそつ》時代なんだが、その頃ドナウヴェルト警察に、現在科学警察を率いている君よりも遙かに結構な推理力を備えた、ブェンツェルシェルデルップと云う警部がいたのだ。その警部が、やはり燃え尽きた大燭台の蝋燭の長さを推定して、それで一番嫌疑の深かった盲人を死線から救い上げたのだが、その時推理の根源をなしたものが、実に平凡きわまる、それでいて誰しもうっかり見逃してしまう点にあったのだ。それは鉄芯の温度なんだよ、元来蝋燭の芯は穴の左右いずれかに偏在しているものなのだから、ああ云う太い鉄芯で際まで燃えてくると、それから先は鉄芯に隔てられて、炎が十分反対側に届かなくなる。それで、蝋の燃焼が不均衡になって、急角度の傾斜が現われて来るのだ。つまり、一方は芯だけになっても、片側には幾分でも蝋が残っていなければならない。だが、そのまま燃え切らせてしまえば、鉄芯に熱が加わって灼熱して来るから、芯が落ちるまでには反対側の蝋もズルズル熔け落ちてしまうけれども……、芯だけになった時いったん消してその後時間を隔てて灯《とも》したとすると、あいにく今度は鉄芯が冷却している。だから、反対側の蝋も、ホンの僅かな間だけ燃える芯の下方に当る部分のみが熔けて、上端の部分はそのままの形で残るか、少なくとも蝋膜ぐらいは存在していなければならない。ところが、あの手燭には、鉄芯が真黒に燻《いぶ》っているだけで、蝋は完全に燃焼してしまってる。するとそれが、ホンのわずかでも蝋燭
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