死因だか判らないけれど、とにかくこの場合、出血が致死量に達する以前に、ラザレフが窒息で意識を失ってしまったことだけは確実なんだよ。その証拠には糞尿を洩らしているし、鞏膜《きょうまく》に溢血点が現われている。そこで重大な分岐点になるのは、最後の呼吸――すなわち刺される、いや君の説によると刺した瞬間前の呼吸が――吐いたか引いたかのいずれにありやなんだが、胸隔を見ると、それが吐息の直後になっている。つまり、それを問題にしなければならないのは、自殺者の定則として――と云うより人間の緊迫心理に、当然欠いてはならぬ生理現象があるからだよ。それはマイネルト等の説だが、末端動脈が烈しく緊縮して胸部に圧迫感が起るので、呼息《いき》を肺臓一杯に満たして不安定な感覚を除いてからでないと、意志を実行に移すことが不可能だと云うことなんだ。ところが、ラザレフの屍体にそれがないとすると、どうして空の肺臓が許したか疑問になって来るだろう。だから、その矛盾をかえって僕は、他殺の推定材料に挙げているのさ。」
「なるほど。」検事は率直に頷いたが、「すると、熊城君のルキーン説が確立されるわけかい。」
「ところが、そうじゃない。」法水は静かに微笑して、熊城に顔を近寄せた。「君の云う侏儒《こびと》の殺人にも、大いに異論がある。そこで最初に僕は、ラザレフの右半身に中風性麻痺が起らなかったと主張するよ。そして、その証拠として、死体の両腕の温度を挙げたいのだ。麻痺の起った部分は屍冷に等しい程冷たくなっていなければならないのだが、ラザレフの両腕を比較してみると、麻痺の軽くなった左腕は云うまでもないことだが問題の右腕にも均《ひと》しい温度で微《かす》かに体温が残っている。と云ったところでたぶん君は、皮膚の感触みたいな微妙《デリケート》なものに信頼は置けぬと云うだろうが、それならそれで、もう一つ適確に否定出来る材料がある。で、それを云う前に、君が芯だけになっていたと云う蝋燭の形に、もう少し具体的な説明が欲しいのだがね。」
熊城はちょっと神経的な瞬きをしたが、
「無論僕は、あの手燭の実際について想像しているんだよ。知っての通り、残蝋が鉄芯の止金を越えて盛り上っている。だから、糸芯の周囲の蝋が全部熔け落ちてしまうと、芯が鉄芯にくっついて直立して、下端《した》のわずかな部分だけが、熔けた蝋に埋まると云う形になるだろう。」
「
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