しもこれが真実なら、実に驚くべしといわざるを得んじゃないか」
そう云ってから杏丸に、
「所で、事件を発見した顛末を伺いましょう。院長と河竹医学士とどちらが先でしたか」
「院長の方です」
といって、杏丸は、見取図を認めた紙片を取り出し、法水に与えてから、
「院長は相当時期の進んだ結核患者なので、無風の夜には、窓を開放して眠る習慣になって居るのです。ですから、今朝の八時頃でしたか、開いている窓から、異様な姿体が容易《たやす》く眼に入りました。所が、その旨を河竹へ報せに行くと、室の扉《ドア》が、押せど叩けど開かないのです。でも一時間余り待ってはみたのですが、何時になっても出て来ないので、止むなくほかの男二人と力を併せて扉を叩き破りました。すると、河竹は背後から、心臓に短剣を刺し通されて、俯向け様に斃されているのです。で、二つの室の情況をいいますと、院長の室は、中庭側の窓が開放されているだけで、扉や他の窓は残らず鍵が掛かっていました。ところが、河竹の方はどうでしょう、全然密閉された室だったのですよ。それから、屍体検案の結果は、河竹はまず論なしとしても、院長の方は、詳細剖見を待つにしろ、まず急性の病死としか思われません。それに、絶命時刻がまた妙なんですよ。院長は、午前二時から三時までの間と思われますが、河竹の方は今朝十時の検視で、絶命後二時間以内という推定しか得られんのです。つまり、吾々が立ち騒いでいる間に、叫声も物音も立てなかった、犯人の陰微な暗躍があった訳ですな」
といってから、杏丸は狡猾な笑いを作って、声を低めた。
「所が法水さん、此処に見逃してはならぬ、出来事があるのです。というのは、院長の死を発見する直前に、屍蝋室の窓下で、番匠鹿子が卒倒しているのを見付けたのでした。勿論すぐ室に抱え込んで気付を与えましたが、その後は顧《かえりみ》る暇がないので、十一時ごろになって漸《や》っと見舞ってみました。すると、その時は平常通りケロリとなっていて、何時の間にか寝台から離れて起き上っていたのです」
「すると、河竹の死に対して、鹿子は明白な不在証明《アリバイ》を欠いているという訳ですね」
法水は相手の顔にジロリと一瞥を与えて、
「では、現場へ案内して頂きましょう」
二、六道図絵の秘密
失楽園は、鵯島に続く三町四方ほどの、岩礁の上に盛土をして、その上に建てられているのだが、周囲の欝蒼たる樹木が、その全様を覆い隠していた。本島との間には刎橋があって、その操作は、院長と二人の助手以外には、秘密にされているとかいう話である。
中央の平地に上図通りの配列で並んでいるのが、失楽園の全部であって、四棟ともいずれも白塗りの木造平屋で、外観はありきたりの、病棟と少しも異なっていなかった。
法水はまず、周囲の足跡を調べ始めたが、昨夜の濃霧で湿っている、土の上にあるものは発見する際の杏丸のもののみで、結局それからは、何も得るところがなかった。
しかし、兼常博士の室に入り、窓越しに対岸の一棟を見ると、斜かいに見える杏丸の実験室がこれも窓が、開け放たれているのに気がついた。
兼常博士の室の窓は、廊下側の二つは単純な硝子窓で、それには掛金が下りているが、中庭側の三つが開け放されてあった。扉は廊下側の左端に、そして、その側の右隅には寝台があり、その上で兼常博士が、寝衣のまま四肢をややはだけ気味に、仰臥している。
年のころは五十四、五で、ブリアン型の髭さえなければ、余程|厳《いか》つい顔立であろうが、その半ば口を開いた死相を見ると、ただただ安らかな眠という外にない。
室内には位置の異なった調度類もなく、何処と云い、取り乱された形跡がないばかりか、指紋や犯跡を証明するものも皆無であった。屍体にも外傷は愚か、中毒死らしい徴候さえ、残されていないのである。尚絶命を証明する時刻は、小卓の上に投げた、右手の甲の下で、腕時計の硝子が割れていて、その指針が正二時を指しているだけでも、明らかだった。
「やはり、心臓痲痺ですかな」
屍体を弄《いじ》っている法水の背後から、杏丸が声をかけた。
「空気栓塞には、猛烈な苦悶が伴いますし、流涎《よだれ》や偏転の形跡もないのですから、脳溢血とも思われませんし……。それに、こんな開放された室内では、有毒|瓦斯《ガス》は用をなさんでしょう」
「そうです。そうあってくれると、実に助かるんですよ」
法水は何故か、反対の見解を匂わせたが、今度は屍体の周囲を調べ始めた。
鍵束は枕の下にそっくりしていて、杏丸の話では、各々の室ごとに鍵の形が異なっているそうであった。が、彼はすぐ寝台から離れて、附近の床上に眼を停めた。
その辺一体に、ひしゃげ乾《こわ》ばった膀胱みたいなものが、四つ五つ散乱しているのであるが、その一寸程の袋体のものは、
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