杏丸医学士の説明により、俄然注目さるるに至った。
「実は私も不審に思っているのです。これは、幹枝の腹水と一緒に取り出された、膜嚢なんですからね。当時、三十幾つか取り出されて、現在は屍蝋室の硝子盤の中に貯蔵されているのですがなかには膜が、相当強靭なものもあるのですよ」
「なるほど」
と法水も頷いたが、
「全く腹腔内の異物が、こんな所に散乱しているなんて、実に薄気味悪い話です。けれども、そう思うのは、これを犯罪の表徴《シンボル》だとするからですよ。もし、兇器の一部だとしたら……」
「オヤオヤ、他殺説を持ち出されると、前が私の室ですからね。しかし、この膜嚢に有毒瓦斯を詰めたと仮定しても、これだけの距離を投擲する前に、第一この薄い膜が無事ではいないでしょう。そうすると今度は、中庭に足跡がないと、いうことになってしまうのです」
と嗤うような杏丸の顔に、法水は皮肉な微笑を投げた。
「いや、足跡なんぞは要りません。大体この膜嚢は、中庭とは反対の方角から、投げられているのですからね」
膜嚢の一つ一つを指し示して、
「貴方は、此処にある全部を連らねて行くと、その線が、屍体を中心とした、半円なのに気が付きませんか。その放射状に、なんだか意味がありそうですね。そうなると、後の硝子窓には、掛金が下りているのですから、この形が何んとなく、博士に加わった不可解な力を、暗示しているようじゃありませんか。とにかくこの情況は、明白に自然死ではありません。そして、他殺にしろ自殺にしろ、この形に、博士の死の秘密があるのです」
こうして、死因不明のままに博士の室を出ると、その足で、調査を河竹医学士の室に移した。
その室は、同じ棟の中で、間に小室を一つ挟んでいるのだが、窓は凡て鎖され、打ち破った扉だけが開かれていた。室の四辺は、殆んど実験設備が埋めていて、その中央に、寝衣《ねまき》の上にドレッシングガウンを羽織った河竹医学士が、扉の方に足を向け、大の字なりに俯伏している。
そして、その背後には、恰度心臓部に当る辺に、柄も埋まらんばかりに深く、一本の短剣が突き刺さっているのだが、血は創口《きずぐち》の周囲に盛り上がっているだけで、附近には血滴一つない。おまけに、室内で眼に止った現象といえば、屍体の足下に椅子が一脚倒れているのみであった。
なお、短剣も河竹の所有品で、犯人が手袋を用いたと見え、柄には指紋が残っていない。こうしてすべての情況が、その即死したらしい有様といい、何もかも博士の室と酷似していて、格闘の形跡は勿論のこと、犯人が跳躍した跡は、何処にも見出されないのである。が、然し、扉の鍵が寝衣の衣袋《かくし》にある所を見ると、密閉された室に、神変不思議な侵入を行った犯人の技巧には、法水も眩惑に似た感情を抑える事が出来なかったのである。
やがて、屍体から右手の壁にある、鳩時計が鳴き始めると、法水はその側にある、実験用の瓦斯栓までも調べたが、それが最後で、全部の調査を終ったらしく、彼に似《に》げない吐息を吐いて言った。
「こりゃ全く、手の付けようがない。内出血が起って、外部へ流れた血が少ないので、刺された時の位置さえ判らんのですよ」
「然し、二時前後に博士を殺して、それから夜が明けて、八時ごろ河竹を殺すまでに、犯人は一体どこに潜んでいたのでしょうな」
と杏丸が、心持《こころもち》仄めかすようにいったが、法水はその言葉に、不快気な眉を顰めただけで、答えなかった。
そして次に、三人の来島者を訊問することになったが、二人の男は、何れも杏丸と同じく、昨夜は就寝後室を出ず、今朝騒がれて初めて知ったというのみの事で、黒松九七郎という癩患者の弟は屍体買入代価の増額を希望しているのみであったが、東海林|泰徳《たいとく》というアディソン病患者の父は、さすが職業が薬剤師だけに、病の性質上死期の早かった点に、濃厚な疑念を抱いているかのような口吻《くちぶり》だった。
所が、最後の番匠鹿子になると、胸に手を当てて、思い出に耽るかのような彼女の口から、影も形もない五人目の人物の存在を、明確に指摘している所の、実に不気味な、目撃談が吐かれて行ったのである。
「たった一目妹を見たいと思ったばかりでした。昨夜一時ごろ、あのひどい濃霧の中を、私は屍蝋室の窓下へ参りました。でどうやらこうやら、鎧窓の桟だけを、水平にする事が出来ましたが見えたのは、嚢《ふくろ》のようなものが浮いている、硝子盤らしいものだけで、それが擦った、燐寸《マッチ》の火に映っただけで御座います。けれども、その時あの室の中に誰かいるような気配が致しました」
「冗談じゃない。三つの死蝋の他誰がいるものですか。あの室は、院長以外には絶対に開けられんのですよ」
杏丸医学士が険相な声を出すと、鹿子はそれを強くいい返して、
「そ
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