れでなければ、妹はじめ二人の方が、生きていた事になるのです。実は私、不思議なものを見たのですわ」
 と、まざまざ恐怖の色を泛かべて、鹿子は語り始めた。
「その折、何処かで二時を打ちましたが、私は最後に残った、一本の燐寸を擦りました。すると急に硝子盤が、真白な光で明るくなったかと思うと、恰度|内部《なか》を掻き廻しているかのように、嚢のようなものが浮きつ沈みつ動いて行くのです。それも、ホンの一、二秒の間でしたが、私はハッと思った瞬間、駭きと疲労とで、気を失ってしまったので御座います。断じて、幻覚では御座いません。その真実なことは、是非信じて頂きたいと思いますわ」
 驚いた二人は、思わず慄然としたように視線を合わせたが、杏丸は信ぜられないかの如くに呟いた。
「もし、なかの膜嚢が、破れてでもいるのでしたら、腐敗瓦斯の発散で、動くこともあるでしょうがね。然し、その光というのだけは、どうしても判らん。確かに吾々以外の人物が潜んでいるんだ――其奴が屹度犯人なんですよ」
 そして、狐の様に刺々《とげとげ》しい、鹿子の顔を凝視《みつ》めるのだった。
 こうして、訊問は終了したが、鹿子はコスター聖書に関して、片言さえも洩らさなかったし、一方法水も、鹿子の不在証明を追求しようともしなかったのである。
 然し、法水は何事か思い付いたと見えて、杏丸を残して、二時間程この室を留守にしていたがやがて戻って来ると、愈《いよいよ》最後の調査を、死蝋室で行うことになった。
 死蝋室は、事件の起った一棟の右手にあって、その室だけには、窓に鎧扉が附いていた。その二重扉の内側には、堕天女よ去れ――と許りに下界を指差している、※[#「りっしんべん」に「刀」、216−下段12]利天の主帝釈《あるじたいしやく》の硝子|画《え》が嵌まっていた。
 そして扉の前に立つと、異様な臭気が流れて来て、その腐敗した卵白のような異臭には、布片で鼻孔を覆わざるを得なかったのである。然し室内には、曽て何人も見なかったであろう所の、幻怪極まりない光景が展開されていた。
 それを、陰惨などというよりも、千怪万状の魁奇《かいき》もここまで来れば、恐怖とか厭悪《えんお》とかいう、感情などは既《とう》に通り越していて、まず一枚の、密飾画然とした神話風景といった方が、適切であるかも知れない。
 扉の右手には、朱丹・群青《ぐんじょう》・黄土・緑青等の古代岩絵具の色調が、見事な色素定着法で現わされている、二人の冥界の獄卒が突っ立っていた。
 右はアディソン病患者の青銅鬼で、緑青色の単衣《ひとえ》を纏い、これはやや悲痛な相貌であるが、左手の赤衣を着た醜怪な結節癩は、その松果《まつかさ》形をした瘡蓋が、殆んど鉱物化していて鋳金としか思われず、それが山嶽のように重なり合って眼も口も塞ぎ、おまけに、その雲を突かんばかりの巨人が、金剛力士さながらに怒張した四肢を張って、口を引ん歪め、半ば虚空を睥睨《へいげい》しているのだ。
 そして、その二人に挟まって蹲《しゃが》んでいるのが、頭髪を中央から振り分けて、宝髻形《ほうきがた》に結んでいる、裸体の番匠幹枝だった。肋骨の肉が落ち窪み、四肢が透明な琥珀色に痩せ枯れた白痴の佳人は、直径二尺に余る太鼓腹を抱えて、今にもそれが、ぴくぴく脈打ち出しそうだった。
 然し法水は、それに一瞥を呉れたのみで、すぐ死蝋と窓との間にある、卓子《テーブル》の側に歩んで行った。
 幹枝の腹から出た腹水と、膜嚢を容れた大きな硝子盤が、その上に載っていて、褐色をした濁った液体の中に、二十余り鼈《すっぽん》の卵みたいに、ブヨブヨしたものが浮いていた。そして、異臭も腐敗した腹水から、発していることが判った。
 其処で、杏丸を顧みて法水がいった。
「この腐敗瓦斯には、硫化水素の匂いが強いじゃありませんか。硝子盤の下の布も、淡緑色に変色していますぜ。多分犯人は、これから純粋の瓦斯を採取して、それを膜嚢に充したもので、博士を殺した、とでもたしか思わせたかったのでしょう。けれども、生憎硫化水素は、患者の毒気といわれるほどで、到る処に痕跡を残して行くのです。それに、仮令《たとえ》純粋のものでも、昨夜のような、猛烈な濃霧に遇《あ》っちゃたまりませんよ。散逸する以前に、何より水蒸気が、吸収してしまいますからね。さてこれから、鹿子の目撃談を解剖しますかな」
 と、法水は窓際に立って、暫く中腰になり、硝子盤と睨めっこしていたが、やがて莞爾と微笑んで腰を伸ばした。杏丸医学士は、その様子を訝かしがって、法水と同じ動作を始めたが、この方は、単に不審を増すに過ぎなかった。
「僕には、貴方が得たり顔をした、理由が判りません。疑問はいよいよ深くなる一方じゃありませんか。破れた膜嚢がないのですから、第一浮動した説明が、付かないでしょう。
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