ける螺旋菌《スピロヘーター》(黴毒菌)を眼窩後壁より頭蓋腔中に注入せしめたるなり。実に、大脳を蝕んで、初期に螺旋菌が作り出すものは、現実を超えたる架空の世界ならずや。即ち余は、幹枝に痲痺狂を発せしめて、それ特有の擬神妄想を聴かんと企てたるものなりき。果して、幹枝の高き教養と脱俗の境地に過せし素質は忽ちに自身を天人に擬して、兜羅綿《どらめん》の樹下衆車苑に遊ぶの様を唱い始めたり。その聴き去るに難き美しさは、この一書を綴るの労を厭《いと》わぬほどにして、正に宝積経や源信僧都の往生要集の如きは、到底比すべくも非ずと思いたりき。
――然るに、その最中余を驚かせたるものありて、幹枝の懐妊を知れり。早速沼津在の農家に送りて分娩を終らしめ、再び本園に連れ帰りしは、本年の一月なりき。されど、その間において幹枝の心身には、果して期せるが如く痛ましき変化を来たせり。即ち、螺旋菌の脊髄中に入りしためにして、運動に失調起り下腹部に激烈なる疼痛現われて、幹枝の幻想も苦痛に伴う悲哀の表現に充ち、華鬘萎み羽衣穢れ――とかいう、天人衰焉の様を唱うようになれり。かくなりては、一路植物性の存在に退化するのみにして、治療の途《みち》はあれども、余には既に幹枝の必要なきことなれば、余《あま》す手段は安死術のみなりというべし。
――されど、自然は余の触手をまたず、幹枝に大腹水症を発せしめたり。六尺余りに肥大せる腹を抱えて、全身は枯痩し、宛然《さながら》草紙にある餓鬼の姿よりなき幹枝を見れば、ありし日の俤《おもかげ》何処ぞやと嘆ずるのほかなく、転変の鉄鎖の冷たさは、夢幻まさに泡影の如しというべし。
――ここにおいて、三月六日切開手術を行い、腹水中に浮游せる膜嚢数十個を取り出せしも、予後の衰弱のため、その日永眠せり。斯くの如く、余は幹枝に天女の一生を描かせ、一年有余の陶酔を貪りたるものなれば、その終焉《しゅうえん》の様を記憶すべく、坐魚礁研究所を失楽園とは名付けたるものなり――
法水が読み終るのを待って、杏丸医学士は続けた。
「然し、研究の完成と同時に、幹枝以外に二つの屍体を、手に入れることが出来ました。二人とも療養所の入院患者で、一人は黒松重五郎という五十男で稀《めずら》しい松果状結節癩。もう一人は、これがアディソン病という奇病で、副腎の変化から皮膚が鮮かな青銅色になるものでしたが、この方は東海林《しょうじ》徹三という若い男でした。ですから、現在では三つの屍体が、完全な死蝋に作られていて、それに、院長が繧繝《うんげん》彩色と呼んでいる、奇怪な粉飾が施されているのです。幹枝は膨《ふくら》んだ腹をそのままに作り、他の二人には冥界の獄卒が着る衣裳を纏わせて、いわゆる六道図絵の多面像を作り上げたのでした」
とそういってから、杏丸の眼にチカッと嗤《わら》うような光が現われた。
「所が、法規上屍体保存の許可と取引代価を、遺族の者に交渉することになりますと、偶然三人の代表が島へ渡って来ました。それが、一昨々日、つまり十一日の事だったのです」
「すると、まだ滞在しているのですね」
「そうです。ですから、この事件は簡単に3−2=1とはいえないのですよ。勿論交渉も易々《やすやす》とは運びませんでした。大体が、屍体の閲覧を拒絶した、院長の措置から発したのでしょうが、黒松の弟も東海林の父親も、代価に不服をいい出しましたし、殊に、幹枝の姉で鹿子といって、前身がU図書館員だという救世軍の女士官は、この手記を見ると、途方もない条件をいい出したのです。それが金銭ではなく、失楽園の一員に加えてくれというのだから、妙じゃありませんか」
「成程、失楽園の一員に……」
法水も怪訝そうに眉間を狭《ひそ》めると、
「多分、これを見たのでしょう」
といって、杏丸は最後のページを開いた。
その日付は手術の当日で、幹枝永眠す――と書いた次に、一枚の鋤《スペード》の女王《クイン》が貼り付けられ、その骨牌《かるた》の右肩に、「コスター初版聖書秘蔵場所」とまた、人物模様の上には「Morrand《モルランド》 足」と書かれてあった。
「モルランド足というのは、たしか八本指の、いわゆる過贅畸形だったね。だが、これは暗号なのかな」
法水が小首を傾けながら訊ねると、真積博士は頷いたが、その下から、
「だがコスター初版聖書とは?」と反問した。
「あったら大変だよ。それこそ歴史的な発見なのさ」
法水は頭から信じないように、
「世界最初の活字聖書は、一四五二年版のグーテンベルク本だが、それと同じ年に和蘭《オランダ》ハーレムの人コスターも、印刷器械を発明して、聖書の活字本を作ったという記録が残っているんだ。然し、この方は現在一冊も残っちゃいないけれども、グーテンベルク本は時価六十万ポンドといわれているんだぜ。だから、も
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