どうしても、杏丸氏に疑惑をかけざるを得ません。それにこの、所々円孔の空いた紙製の球体は、花火の弾殻なのですよ。そうすると、膜嚢に有毒気体を充たしたものを孔につめて、弾殻には極く力の弱い煙硝を使い、そして、飛去来器に噛ませて、それを飛ばせたとすれば、適当な場所で煙硝の燃焼から飛び出した膜嚢が、恐らく死因不明の即死を起させやしないでしょうか。勿論、弾殻は飛去来器に伴って、再び手許に戻って来るのですが、その時の火花が、幾つかの硝子窓を通って、屍蝋室の硝子盤に映じたのです」
 その瞬間杏丸に向けて、何やら含んでいそうな視線が、一斉に注がれた。
 が、法水には抑揚さえも変らなかった。
「然し、もう一歩進んで、飛去来器特有の弧線飛行を―殊に復路の大きな弧線―を考えると、杏丸氏の室を基点とする容易い解釈が、実に誤った、皮相な観察に過ぎない事が判るのです」
 それから、見取図に弧線を描いて、法水は説明を続けた。
「御覧の通り、杏丸氏の実験室からでは、位置が一寸|斜《はすか》いになっているので、弧線のために、隣室に打衝《ぶつか》ってしまうのです。また、煙硝が直接火を呼ばないためには、導火線の長さも考えなければなりません。そうすると、飛去来器《ブーメラング》使用の犯行が、すっかり行き詰まってしまうのですが、私は不図した思い付きで、復路が終ろうとする際に、もう一度、飛来する力を与えたらと思いました」
「なに、もう一度……」
 真積博士は、驚いたように顔を挙げたが、その眼を法水は、冷やかに弾き返して、
「つまり、折り返した時の大きな弧線の中途で、反対の方向へ、もう一度弾き飛ばす動力に思い当ったからです。その力が、煙硝の燃焼でした。そうなると、今度は基点が変って、博士と同じ棟にある、河竹の室になるのですが、まず飛去来器を、対岸の杏丸氏の実験室に飛び込ませるとその折返《おりかえ》した大きな弧線が、兼常博士の室に入ります。その時、煙硝が燃えたのですから、膜嚢を排出した時の排気の反動で、恰度ロケットのような現象が現われたのです。ですから、その新しい力を与えられた飛去来器は、再び来た線を逆行して、もとの杏丸氏の実験室の中へ飛び込んでしまったのですよ」
 そうなってみると、一体犯人が誰なのやら、とんと霧中を彷徨うの感じだった。現象的には、解決の近さを感ずるとは云え、肝心な一人の名――それが法水の口から、何時かな容易に洩れようとはしない。
「要するにこれは、犯罪を転嫁しようという行為なのですが、飛去来器といい花火といい、十分理学的に計算出来る性質のものですから、この犯行には相当の確実性があります。使った有毒気体は、屍体に青酸死の徴候がない所を見ると、多分砒化水素だったのでしょう」
「だが、瓦斯は散逸してしまうぜ」
 真積博士は、もう一度反駁した。
「所が一瞬に床へ下降させたものがあったのだ。それに、あの猛烈な濃霧《ガス》さえなければね」
 と法水は皮肉にいい返してから、
「所で、霧の中へ、温度の違う気流が流れると、霧が二つに分れる現象を御存知でしょうか。つまり、ヘルムホルツなどという、偉い学者の名を使わなくても、水蒸気の壁と温度の相違が、散逸を防ぐからなのです、ですから、昨夜の濃霧は、犯人にとると此の上もない好機だったのですが膜嚢が破れて飛び出した砒化水素は、炸裂に際して起る旋廻気流が上方にあったため、それに押されて、長い紐状となって下降して行きました。そして、その一端が、博士の鼻孔に触れたのです」
「すると、犯人は?」
「無論、河竹医学士です」
「では、その河竹を殺した者は?」
「所が、河竹は自殺したのです」
 法水は笑った。ああ、凡ゆる情況が転倒されてしまったのだ。
「河竹の捻《ひねく》れた性根は、自分の悲運を何人かにも負担させようとして、実に驚くべき技巧を案出しました。あの短剣は、横手にある実験用瓦斯の口栓から、発射されたのでした。まず河竹は短剣の柄《つか》を栓の口に嵌め込んでから、そこと元捻迄の鉛管に小さな孔を開けて、其の部分の空気を排気|※[#「くちへん」に「即」、221−上段2]筒《ポンプ》で抜いてしまったのです。そして元捻には蝶形の一方に糸を結び付け、片方の端を、鳩時計の小さい扉の中にある、螺旋に結び付けました。その螺旋は、一時間毎に弛んで、弛んだ時に小扉が開き鳩が動くのですが、勿論その仕事は、時間が来て小扉が開く、直前になされたと見なければなりません。すると、時刻が来て、鳩の出る扉が開くと、糸が押されてピインと張るので、蝶形を引いて瓦斯の栓を開きます。そして、真空の中に噴出する悽じい力が、口元の短剣を発射させたのでした。然し、計量器のねじ[*「ねじ」に傍点]が閉っているので、噴出した僅かな量は、瞬く間に散逸してしまいました。また、一方の糸は手許に引
前へ 次へ
全8ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング