いた機《はず》みに蝶形から抜けて、その後一時間の間に、鳩時計の螺旋の中に納められてしまったのですよ」
「では、やはり河竹が犯人だったのか。それにしても、一体どう云う動機で……」
と同じような意味を、真積博士と杏丸医学士とが、眼の中で囁き続けているうちにも、法水は舌を休めなかった。
「で、その動機をいうと、自分に兼常博士を殺させたものが、途方もない正体を現わしたからで、それはいうまでもなく、コスター聖書でした。河竹は、漸くその在所《ありか》を知ることが出来たので、強奪を企んで兼常博士を殺したのですが、不思議なことにコスター聖書は、自身を河竹に奪わせなかったのです」
「おお」
鹿子が思わず狂的な偏執を現わし、卓子の端をギュッと掴んだ。
「如何にも、河竹に続いて、私はコスター聖書の秘蔵場所を突き止めました。それには、無論あの骨牌《カード》に示された、博士の謎を解いたからですが、あれは非常に他愛なく、こんな具合に解けて行くのですよ」
法水は、始めて莨《たばこ》を取り出し、悠々暗号の解読を始めた。
「大体、モルランド足というのが八本|趾《ゆび》で、普通より三本多いのですから、その剰《あま》った三という数字が、この場合三字を控除せよ――という意味ではないかと思いました。そして、とつおいつの挙句、モンドの三字を除いて、さて残ったラとルとで、今度はラを左へ横倒しにしてみると、丁度その二つが、紙に書いたルの字を裏表から眺めた形になりましょう。これこそ、死蝋室の扉にある。帝釈天の硝子画ではないでしょうか。また鋤《スペード》の女王《クイン》は、そのどう向けても同じ形のところから、井という字の暗示ではないかと考えたのです。それで、硝子画の帝釈が指差している床下を探ると、果してそこに、自然の縦孔があって、コスター聖書はその中から発見されました」
そういって鹿子に向き直り、法水は莞爾《にっこり》と微笑んだ。
「然し、その所有は明らかに貴女へ帰すべきです」
法水の衣袋から、時価一千万円に価する稀覯《きこう》本が取り出される刹那は、恐らく歴史的な瞬間でもあったし、また驚異と羨望とで、息吐く者もなかったであろう。が取り出されたものを見ると、一同はアッと叫んだ。
なんとそれが、聖書は愚か、似てもつかぬ胎児のような形をした、灰色の扁平《ひらべた》いものに過ぎなかったのだ。
鹿子は怒りを罩めて叫んだ。
「お戯れは止めて下さい。サア早く、コスター聖書を」
「これがそうなのです。兼常博士は、この胎児の木乃伊《ミイラ》をコスター聖書に比喩《たと》えたのですが、その理由はというと、双胎の一方が圧し潰されて出来る紙形胎児を、単に他の美しい言葉と換えたに過ぎなかったのです」
法水は、今にも泣き出しそうな鹿子の顔を見ながら、静かにいった。
「幹枝さんに妊《みごも》ったのは、双胎児だったのですよ。所で、虚弱な双胎児は、片方が死ぬと、残された方が健全に育つのですが、幹枝さんのも恰度それで、つまり、一方の犠牲になったというのを、切角同時代に印刷器械を発明して聖書を作りながらも、グーテンベルグの光輝のため、暗の中へ葬られた不運なコスターに比喩えたのです。ねえ皆さん、兼常博士と河竹医学士の生命を絶ったものは、実に、この一つの比喩にすぎなかったのですよ」
底本:「二十世紀鉄仮面」桃源社
1971(昭和46)年11月15日発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:野口英司
校正:小浜真由美
1998年8月8日公開
2000年1月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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