かへ消え去ってしまった。
 彼女は、二つの世界の境界を、はっきりとまたぎ越えて、やがて訪れるであろう恋愛の世界に、身も世もなく酔い痴《し》れるのだった。
 けれども、翌日から彼女を訪れるものは、やはり横蔵であって、慈悲太郎は、自分から近づくような気振りを見せなかった。それが、フローラの影法師を抱きしめて朦朧《もうろう》とした夢の中で楽しんでいるように見えたのである。
「のうフローラ、そなたとこうして、恋のはじめの手習いをするにつけて、つくづく近ごろは、沖に船が、通らねばよい――とのみ念ずるようになった。したがそなたは、儂《わし》の髪ばかりを梳《す》いていて、なぜにこちらを向いてくれぬのじゃ。察してくりゃれよ。日がなそなたの呼吸を、首ばかりでのう、嗅《か》いでおる儂をな」
 と、横蔵が、恨みがましい言葉を口にしたように、何よりフローラは、彼の艶々《つやつや》しい髪の毛に魅せられてしまったのだ。
 海気に焼け切った、横蔵の精悍《せいかん》そのもののような顔――鋭く切れ上がった眥《まなじり》、高く曲がった鼻、硬さを思わせる唇にもかかわらず、その髪は、豊かな大たぶさにも余り、それが解かれるとき
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