の間にか、壁側の椅子になんということなく腰を掛けていて、この上は苦しみから逃れるために、いっそ生命も尽き、墓石の下で安らかに眠りたいとばかり念じておりました。それは、眼の前に、冷え冷えと横たわっている、一人の老人があったからです。
 父でした――ええ、父ですとも、なんで幼かったとはいえ、私の記憶からあの面影が消え去りましょうか。しかし、父は中風を患ったとみえて、私のことなどさらさら記憶にもなく、おまけに左眼はつぶれ、右手は凍傷のため反り腕になっていて、両手の指は、醜い癩《らい》のようにひしゃげつぶれているのでした。その腕を広げて、あろうことか、私に淫《みだ》らしい挑《いど》みを見せてまいったのです。そして、その獣物《けだもの》のような狂乱が、とうとう私に……」
 とフローラは、長々と尾を引いて、低く低く声を落としたが、続けた。
「ですけど、お慈悲深い基督《キリスト》様は、たぶん私をお許しくださるでしょう。およそ地上に、こうも不思議と神秘に満ちた大いなる愛があるでしょうか。私は、父の死後の生活を思って、同じ血同じ肉の交らいを、犯させまいとして、父を刺し殺したのでございます。ですけど、父と
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