軍船に近づくまで、いっこうに姿を現わさなかった。
 そうしているうちに、真《ま》っ蒼《さお》に立ち上がってくる、山のようなうねりが押し寄せたと見る間に、その渓谷から尾を引いて、最初の火箭《ひや》が、まっしぐらに軍船をめがけて飛びかかった。
 ところが、その瞬間、砲声を聴くと思いのほか、意外にも、侘《わ》びし気な合唱の声が、軍船の中から漏れてきた。
 そして、海に、人型をした灰色のものを投げ入れながら、そのぐるりを静かに回り始めたのである。それには、錫《すず》色の帆も砲門の緑も、まるで年老いて、冷たい眠りに入ったかのようであった。
 迷信深い魯西亜《オロシャ》の水兵どもは、綾《あや》に飛びちがう火光を外目にして、祈祷《きとう》歌を、平然と唱え続けているのだ――それは沈厳な、希臘《ギリシア》正教特有の、紛う方ない水葬儀だったのである。
 一つ二つ――そうして、甲板から投げ込まれる、灰色のものを、二十五まで数えたときだった。
 思わず慈悲太郎は、総身にすくみ上がるような戦慄《せんりつ》を覚えたのである。
 もしやしたら、この軍船は悪疫船《えやみぶね》ではないか……。
 しかし、そう気づいた時は、すでに遅かった。後檣《こうしょう》の三角帆から燃え上がった炎が、新しい風を巻き起こして、いまや岬の鼻を過ぎ、軍船は入江深くに進み行こうとしている。
 そして、最後に二十六番目の死体が――それも麻布にくるまれ、重錘《おもり》と経緯度板をつけたままの姿であるが――ドンブリと投げ込まれたとき、火気を呼んだ火縄函《みちびばこ》が、まるで花火のような炸裂《さくれつ》をした。かくして、その軍船は、全く戦闘力を失ってしまったのであるが、その時小舟の一つから、うめきとも驚きとも、なんとも名付けようのない叫び声があがった。
 というのは、一筋銀色の泡を引いて、水底から、不思議な魚族が浮かび上がってきたからである。
 はじめ、水面のはるか底に、ちらりと緑色のものが見えたかと思うと、その影は、すぐに身を返して、尾をパチパチとさせ、またも返して、激しいうねりを立てる。と、銀色をした腹の光が、パッとひらめいて、それが八方へ突き広がっていくのだった。
 そのうねりの影は、真っ白な空を映して無数に重なり合う、刃のように見えた。
 しかし、そうして一端は、遠い大きな、魚のように思えたけれど、ほどなく、渚近くに浮き上がったものがあった。
 その瞬間横蔵は、眩《くら》み真転《まろば》わんばかりの激動をうけた。平衡を失って、不覚にも彼は、片足を浅瀬の中に突き入れてしまった。
 いまや帆を焼き尽くし、火縄《ひなわ》を失って、軍船は速力さえも減じつつあるのではないか。まさに、追撃を試みる絶好の機会にもかかわらず、なにゆえに横蔵からは、好戦の血が失われてしまったのであろう?
 彼は、眼前の、この世ならぬ妖《あや》しさに蠱惑《こわく》され、自分の幻影を壊すまいとして、そのまましばらくは、じっと姿勢を変えなかったのである。
 それは、眼底の神経が、露出したかと思われるばかりの、鋭い凝視だった。
 頭上の、蒼白《あおじろ》い太陽から降り注ぐ、清冽《せいれつ》な夜気の中で、渚の腐れ藻《も》の間から、一人の女が身をもたげてきた。そして、体を動かすごとに、藻の片々が摺《す》り落ちて、間もなく彼女が、裸体であることがわかった。
 こんな遅い時刻でさえも、中天にただ一つ、つけっ放しになっている蒼いランプは、すんなりした女の姿を、妖精《ようせい》のように見せていた。それがちょうど、透き通った、美しい外套《がいとう》でもあるかのように、両肩も胸も、たくましい肉づきの腰も、――何もかも、つるつるとした絹のような肌身を、半ば透明な、半ばどんよりとした、神秘の光が覆うているのだ。
 こうして、最初のうちこそ、流血を予期された事態が、計らずも一変した。軍船も砲列も、毒矢も、火箭も、ただいちずに、夢の靄《もや》の中へ溶け込んでゆくのである。
 しかし一方では、そうした驚きの中で、妙に迷信的な、空恐ろしさが高まっていった。
 というのは、女の体の一部に、どう見ても、それが人間的でないものが、認められたからである。その女の持つ毛という毛、髪という髪からは、肩に垂れた濡髪《ぬれがみ》からも、また、茂みを吹く風のように、衣摺《きぬず》れの音でも立てそうな体毛からも、それはまたとない、不思議な炎が燃え上がっているのだ――緑色の髪の毛。
 それゆえ、ともすると横蔵は、錯覚に引き入れられ、金色に輝く全身の生毛《うぶげ》に、人魚を夢見つつ、つぶやくのだった。
「うむ、緑の髪を持った女――さっき渚から這《は》い上がったとき、たしかに儂《わし》は、貝殻《かいがら》のような小さい足を見たはずだぞ。両親は、寛永の昔サガレンに流れ寄った漂流
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