であるから。
 EL《エル》 DORADO《ドラドー》――それはついにインカ族が所在を秘しおおせてしまったところの、まさに伝説中の伝説であった。
 かつて、西班牙《スペイン》植民史には幻の華《はな》となって咲き、南米エセクイボの渓谷にあるとのみ信じられて、マルチネツはじめ、数千の犠牲をのみ尽くした黄金都市がそれである。
 だが、いったいベーリングは、なぜその夢想の都市に、千島ラショワ島を擬しているのであろうか。ああ、どうしてのこと、熱沙《ねっさ》の中から、所在を氷海の一孤島に移しているのであろうか。
 私も、読み終わると同時に、しばらくの間は、熱気のほてりに茫然《ぼうぜん》となっている。
 しかし、黄金郷《エルドラドー》の所在――そういう世紀的な謎《なぞ》をめぐって、あの、ラショワ島の白夜を悩まし続けた、血みどろの悲劇を思うと、なんだかこれを、実録として発表するのが惜しくなってきた。
 そして、泡《あわ》よくば一編の小説として、これを世に問いたい誘惑に打ちかち兼ねてしまったのである。

  緑毛の人魚

 つい一刻ほど前には、渚《なぎさ》の岩の、どの谷どの峰にも、じめじめした、乳のような海霧《ガス》が立ちこめていて、その漂いが、眠りを求め得ない悪霊のように思われた。
 すでに刻限も夜半に近く、ほどなく海霧《ガス》も晴れ間を見せようというころ、ラショワ島の岩城は、いまや昏々《こんこん》と眠りたけていた。
 見張りの交代もほど間近とみえ、魚油をともす篝《かがり》の火が、つながり合いひろがり合う霧の中を、のろのろと、異様な波紋を描きながら、上っていくのだった。
 すると、それから間もなく、何事が起こったのであろうか、ドドドドンと、けたたましい太鼓の音。それが、海波の哮《たけ》りを圧して、望楼からとどろき渡った。
「慈悲太郎、どうじゃ。見えるであろうな。あの二楼帆船《フリゲート》には、ベットの砲楼が付いているわい。ハハハハ、驚くには当たらぬ、あれが軍船でのうてなんじゃ。魯西亜《オロシャ》もこんどこそは怒りおったとみえ、どうやら、火砲《カノン》を差し向けてきたらしいぞ」
 と蘇古根横蔵は撥《ばち》を据《す》えて、いつも変わることのない、底知れぬ胆力を示した。そして、海気に焼け切った鉤鼻《かぎばな》を弟に向けて、髻《もとどり》をゆるやかに揺すぶるのだった。
「だが兄上、私はただ、海波高かれとばかりに祈りおりまする。そして、舷側《げんそく》の砲列が役立たぬようにとな」
 火器のない、この島のひ弱い武装を知る弟は、ただただ、迫り来たった海戦におびえるばかりだった。が、それに横蔵は、波浪のような爆笑をあげた。
「いやいや、火砲《カノン》とは申せ、運用発射を鍛練してこその兵器じゃ。魯西亜《オロシャ》の水兵《マドロス》どもには、分度儀《ジャスパー》も測度計《サイドスケール》も要らぬはずじゃ。水平の射撃ならともかく、一高一低ともなれば、あれらはみな、死物的に固着してしまうのじゃよ。慈悲太郎、兄はいま抱火矢を使って、あの軍船と対舷《たいげん》砲撃を交わしてみせるわ」
 それは、何物の影をも映そうとせぬ、鏡のように、外は白夜に開け放たれた。
 その蒼白《そうはく》さ、なんともたとえようのない色合いのほのめきは、ちょうど、一面に散り敷いた色のない雲のようであった。
 その中を、渚《なぎさ》では法螺《ほら》貝が鳴り渡り、土人どもは、櫂《かい》や帆桁《ほげた》に飛びついた。次第に、荒々しい騒音が激しくなっていき、やがて臆病《おくびょう》な犬のそれのように、嚇《おど》しの、喉《のど》をいっぱいにふくらませた、一つの叫び声にまとまっていくのだった。
 しかし、渚を離れて、その幾艘《いくそう》かの小舟が、ほとんど識別し難い点のようになると、入江の奥は、ふたたび旧の静寂に戻った。
 その時慈悲太郎は、静かに砂を踏み、入江を囲む、岬《みさき》の鼻のほうに歩んで行った。
 青白い日光が、茫漠《ぼうばく》たる寂寥《せきりょう》の中で、こうもはっきりと見られるのに、岬の先では、海が犠牲《いけにえ》をのもうと待ち構えている。それが、嵐《あらし》を前にした、ねつっこい静けさとでもいうのであろうか。いや、嵐を呼ぶ、海鳥の泣き狂う声さえ聞こえないではないか。
 背後には、四季絶えず陰気の色の変わらぬ、岩柱の城がそそり立ち、灰色をした地平線の手前には、空の色よりも、幾分濃いとしか思われぬ鉛色の船体が、いとも眠たげに近づいてくるのである。
 まこと、その二つのものは、冷たい海の上に現われた幻のように、それとも、仄暗《ほのぐら》い影絵としか思えないのだった。
 しかし、味方は巧妙に舟を操って、あるいは水煙の中に隠れ、滝津瀬のようなとどろきを上げる、波濤《はとう》の谷底を選《え》り進んでは、
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