のとしたいくらいでございますのよ」
と悩まし気な、視線を彼に投げ、ほんのりと、紅味に染んだ見交わしの中で、その眼は、碧《あお》い炎となって燃え上がった。そして、片肌を脱がせ、紗《しゃ》の襦袢《じゅばん》口から差し入れた掌《て》を、やんわりと肩の上に置いたとき、その瞬間フローラは、ハッとなって眼をつむった。
彼女は、臆病《おくびょう》な獣物《けだもの》が、何ものかを避けるように飛びのいて、ふたたび、その忌まわしい場所に視線を向けようとはしなかったのである。
というのは彼女が手を引くと同時に、窓越しに差し出された、一つの、煙のような掌を見たからであった。
それは、おそらく現実の醜さとして、極端であろうと思われる――いわばちょうど、孫の手といったような、先がべたりと欠け落ちたステツレルのそれであったからだ。
その夜、徹宵《よっぴて》フローラは、壁に頭をもたせ、うずくまるようにして座っていた。
父ステツレルの怪異が――、あの妖怪《ようかい》的な夢幻的な出現が、時を同じゅうして、いつも、痴《し》れ果てたときの些中《さなか》に起こるのは、なぜであろうか。と、いくら考えつめていっても、同じような混沌《こんとん》状態と同じような物狂わしさは、いっかな果てしもなく、ただただ彼女だけが、その真っただ中に、取り残されているのを知るのみであった。
すると突然、ひゅうひゅうというすさまじい声が、空から聞こえてきた。
彼女の相手となる、男という男に、あの世から投げる父の嫉妬《しっと》が、あまねく影を映すとすればいつか彼女に黴《かび》が生え、青臭い棺《ひつぎ》に入れられても、その墓標には、恋の思い出一つ印されないに相違ない。もう一度、そうだ……。もし慈悲太郎に、横蔵と同じ運命をたどらせるとすれば、もはや男と呼ばれて、彼女をおびやかす、忌まわしい対象が、この島にいなくなるのだ。
と思いなしか、前よりもいっそう狂い募る、波の響き、風の音の中から、彼女にそう警告したものがあった。
しかし、ここに奇異《ふしぎ》というのは、間もなく横蔵の場合と、符合したかのように、慈悲太郎が悪疫にたおされてしまったからである。
そして、季節も秋近く、そろそろ流氷のとどろきがしげくなったころ――、その日は、暮れるとともに、恐ろしい夜となって展開した。
一刻一刻と風は高まり、海は白い泡《あわ》をかぶって、たてがみのような潮煙を立てた。その時、異様な予感にそそられて、フローラは頭をもたげ、部屋の濃い闇《やみ》の中をじっとのぞきはじめた。それは、嵐《あらし》の合間を縫って、どこからともなく響いてくる、漠然とした物音があったからだ。
そうして彼女は、その夜更けに、ふと慈悲太郎との部屋境にある、格ガラスを透かして、時折り青白いはためきをする、蝋燭《ろうそく》の炎を見つめているうちに、いきなり、激しい恐怖の情に圧倒されてしまった。
見ると、扉がいつの間に開かれたのであろうか、荒れ狂う大風に伴った雨の流れが、その格ガラスの上に、ドッと吹きつけたのである。と思うと、瞬間おどろと鳴り渡った響きの中から、見るも透《す》んだ蒼白《あおじろ》い腕が――しかも、指のひしゃげつぶれた、反り腕の父のそれが――フローラの眼をかすめて、スウッと横切ったのであった。
黄金郷《エルドラドー》の秘密
翌朝になると、果たして慈悲太郎は冷たい亡骸《なきがら》と変わり、胸には、横蔵と異ならない位置に、短剣が突き刺さっていた。
その日の午後、フローラは、しょんぼり岬《みさき》の鼻に立っていて、いまにも氷の下に包まれるであろう、死者のことを思いやっていた。それは、村々の外れに淋《さび》しく固まっている共同墓地の風景であった。
しかも、その時ほど、自分の宿命と、罪業《ざいごう》の恐ろしさを、しみじみ感じたことはなかったのである。彼女は、靄《もや》の中に隠されている、ある一つの、不思議な執拗《しつよう》な手に捕らえられているのだ。その明証《あかし》こそ昨夜まざまざと瞳《ひとみ》に映った、父の腕ではないか。
そして、最初横蔵の鏡に映った片眼が、もしそうであるにしても――と、フローラは不思議な自問自答をはじめた。
というのは、はしなくその時の鏡が、古びた錫《すず》鏡だったのに気がついたからである。
元来錫鏡というのは、ガラスの上に錫を張って、その上に流した水銀を圧搾するのであるから、したがって鏡面の反射が完全ではなく、わけても時代を経たものとなると、それは全く薄暗いのである。すると、横蔵の背後に置いた一つが問題になってきて、もし、その角度が、光線と平行な場合には、当然水銀が黝《くろず》んで見えるはずであるから、正面に映った横蔵の眼に、暗くくぼんだような黝みが映らぬとも限らないのである。
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