人の気配を悟ることができた。
「そもじ二人は、小さいながら、このラショワ島が一国であるのを忘れたとみえますのう。総じて貴人というものは、上淫《じょういん》を嗜《たしな》むのです。そなた二人は、虹《にじ》とだに雲の上にかける思いと――いう、恋歌を御存じか。そのとおり、王侯の妃《きさき》さえも、犯したいと思うのが性情《ならい》なのじゃ。そのゆえ、遊女には上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》風の粧《よそお》いをさせて、太夫《だゆう》様、此君《このきみ》様などともいい、客よりも上座にすえるのです。それも、一つには、客としての見識だろうと思いますがのう。くれぐれも、女子の情けを、ひどう奪ってはなりませぬぞ。それで、今日この今から、フローラを太夫姿にして、私は、意地と振り(客と一つ寝を拒む権利)を与えようと思うのです。相手の意に任せながら、その牆《かき》を越えてこそ、そもじ二人は、この島の主といえるのじゃ」
昨夜に続いて、再びこの島にも、聞くも不思議な世界が、ひらかれいこうとしている。
それは、横蔵、慈悲太郎の瞳《ひとみ》の底で、ひそかに燃え上がった、情けの焔《ほむら》を見て取ったからであろうか、二人の争いを未然に防ごうとして、紅琴が、世にも賢しい処置に出たのであった。そして、フローラには、あわただしい、春の最初の印象が胸を打ったのである。
ぬれた、青葉のような緑の髪を、立兵庫《たてひょうご》に結い上げて、その所々に差し入れた、後光のような笄《こうがい》に軽く触れたとき……フローラの全身からは、波打つような感覚が起こってきた。またそうした、恋の絵巻の染めいろを、自分の眉《まゆ》、碧々《あおあお》とした眼に映してみると、その対照の香り不思議な色合いに、われともなくフローラは、美の泉を見いだしたような気がした。
彼女は、ハッハと上気して、腰を無性にもじもじ回しはじめた。
それから、床着《とこぎ》の黄八丈を着て、藤紫の上衣を重ね、結んだしごきは燃え立つような紅《くれない》。そのしどけなさ、しどけなく乱れた裾《すそ》、燃え上がる裾に、白雪と紛う腓《ふくらはぎ》。やがて、裲襠《うちかけ》を羽織ったとき、その重い着物は、黄金と朱の、激流を作って波打ち崩れるのだった。
こうして、フローラに太夫姿が整えられると、悩ましかった過去の悪夢も、どこかへ消え去ってしまった。
彼女は、二つの世界の境界を、はっきりとまたぎ越えて、やがて訪れるであろう恋愛の世界に、身も世もなく酔い痴《し》れるのだった。
けれども、翌日から彼女を訪れるものは、やはり横蔵であって、慈悲太郎は、自分から近づくような気振りを見せなかった。それが、フローラの影法師を抱きしめて朦朧《もうろう》とした夢の中で楽しんでいるように見えたのである。
「のうフローラ、そなたとこうして、恋のはじめの手習いをするにつけて、つくづく近ごろは、沖に船が、通らねばよい――とのみ念ずるようになった。したがそなたは、儂《わし》の髪ばかりを梳《す》いていて、なぜにこちらを向いてくれぬのじゃ。察してくりゃれよ。日がなそなたの呼吸を、首ばかりでのう、嗅《か》いでおる儂をな」
と、横蔵が、恨みがましい言葉を口にしたように、何よりフローラは、彼の艶々《つやつや》しい髪の毛に魅せられてしまったのだ。
海気に焼け切った、横蔵の精悍《せいかん》そのもののような顔――鋭く切れ上がった眥《まなじり》、高く曲がった鼻、硬さを思わせる唇にもかかわらず、その髪は、豊かな大たぶさにも余り、それが解かれるとき、腕に絡んで眠る水精のように思われたのだった。
しかし、それには理由があって、以前大陸の東海岸に近いある町で、偶然フローラは、一枚の木版画で日本という国を知ったのであった。
それには、顔に檜扇《ひおうぎ》を当てた、一人の上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》が、丈なす髪を振り敷いて、几帳《きちょう》の奥にいる図が描かれてあって、それに感じた漠然《ばくぜん》としたあこがれが、いまも横蔵の、美しい髪を見るにつけ意識するともなく燃え上がったのであった。
「ホホホホ、お難《むず》かりもほどになさいませ。いま一の絃《いと》をしめて、私調子を合わせたばかりのところでございますわ」
と華奢《きゃしゃ》な指に、一筋髪を摘まんで、輪になったそれを解《ほぐ》しながら、
「ではいっそのこと、合わせ鏡をしたら……。それほど、私の顔を御覧になりたいのなら――、いかがでございますか」
と持ち添えた、二つの鏡をほどよく据えて、前方の一つ――なかに映った横蔵の顔を、じっとのぞき込んだときだった。
何を見たのかフローラは、アッと叫んで、取り落としてしまった。なぜなら、そこ
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング