かへ消え去ってしまった。
彼女は、二つの世界の境界を、はっきりとまたぎ越えて、やがて訪れるであろう恋愛の世界に、身も世もなく酔い痴《し》れるのだった。
けれども、翌日から彼女を訪れるものは、やはり横蔵であって、慈悲太郎は、自分から近づくような気振りを見せなかった。それが、フローラの影法師を抱きしめて朦朧《もうろう》とした夢の中で楽しんでいるように見えたのである。
「のうフローラ、そなたとこうして、恋のはじめの手習いをするにつけて、つくづく近ごろは、沖に船が、通らねばよい――とのみ念ずるようになった。したがそなたは、儂《わし》の髪ばかりを梳《す》いていて、なぜにこちらを向いてくれぬのじゃ。察してくりゃれよ。日がなそなたの呼吸を、首ばかりでのう、嗅《か》いでおる儂をな」
と、横蔵が、恨みがましい言葉を口にしたように、何よりフローラは、彼の艶々《つやつや》しい髪の毛に魅せられてしまったのだ。
海気に焼け切った、横蔵の精悍《せいかん》そのもののような顔――鋭く切れ上がった眥《まなじり》、高く曲がった鼻、硬さを思わせる唇にもかかわらず、その髪は、豊かな大たぶさにも余り、それが解かれるとき、腕に絡んで眠る水精のように思われたのだった。
しかし、それには理由があって、以前大陸の東海岸に近いある町で、偶然フローラは、一枚の木版画で日本という国を知ったのであった。
それには、顔に檜扇《ひおうぎ》を当てた、一人の上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》が、丈なす髪を振り敷いて、几帳《きちょう》の奥にいる図が描かれてあって、それに感じた漠然《ばくぜん》としたあこがれが、いまも横蔵の、美しい髪を見るにつけ意識するともなく燃え上がったのであった。
「ホホホホ、お難《むず》かりもほどになさいませ。いま一の絃《いと》をしめて、私調子を合わせたばかりのところでございますわ」
と華奢《きゃしゃ》な指に、一筋髪を摘まんで、輪になったそれを解《ほぐ》しながら、
「ではいっそのこと、合わせ鏡をしたら……。それほど、私の顔を御覧になりたいのなら――、いかがでございますか」
と持ち添えた、二つの鏡をほどよく据えて、前方の一つ――なかに映った横蔵の顔を、じっとのぞき込んだときだった。
何を見たのかフローラは、アッと叫んで、取り落としてしまった。なぜなら、そこ
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