チたが、その驚きはすぐに回復された。
「いや、それはたぶん、オリガさんだけの異例でしょうが」
「しかし、いったん不幸な暗合が現われたからには、それをあくまで追及せねばなりません。のみならず、一方その事実と対照するものに、一族の特異体質を暗示している屍様図があるのです。また、それを、四人の方が幼少の折、日本に連れて来られたという事実に関聯させるとなると、それからは明らさまに、算哲の異常な意図が透かし見えてくるのですよ」と法水は、そこでちょっと言葉を截《た》ち切ったが、一つ大きな呼吸をすると云った。「ところがレヴェズさん、ここに僕自身ですらが、事によったら自分の頭の調子が狂っているのではないかと、思われるような事実があるのです。と云うのは、これまで妄覚にすぎなかった算哲生存説に、ほぼ確実な推定がついたことなんですよ」
「アッ、なんと云われる!」と瞬間レヴェズの全身から、いっせいに感覚が失せてしまった。その衝撃の強さは、瞼筋までも強直させたほどで、レヴェズは、なにやら訳の判らぬことを、唖《おし》のように喚《わめ》きはじめた。そうした後に、彼は何度となく問い直して、ようやく法水の説明で納得がゆくと、全身が熱病患者のように慄《ふる》えはじめた。そして、かつて何人にも見られなかったほどの、恐怖と苦悩の色に包まれてしまったのである。そのうちやがて、
「ああ、やはりそうだったのか。|動き始めれば決して止めようとはしまい《オグニ・モート・アテンデ・アル・スオ・マンテニメント》」と低い唸《うな》るような声で呟いたが、ふと何に思い当ったものか、レヴェズの眼が爛々《らんらん》と輝き出して「不思議だ――なんという驚いた暗合だろう。ああ算哲の生存――。たしか、この事件の初夜には、地下の墓※[#「穴かんむり/石」、349−1]《ぼこう》から立ち上って来たに相違ない――。それが法水さん、まだ現われていない|地精よ、いそしめ《コボルト・ジッヒ・ミューエン》――に、つまり、あの五芒星呪文の四番目に当るのではないでしょうかな。なるほど、儂《わし》等の眼には見えなかったでしょう。けれども、あの札は既《とう》に水精《ウンディネ》以前――つまり、この恐怖悲劇では、知らぬ間に序幕へ現われてしまったのですよ」と顔一面に絶望したような、笑いともつかぬものが転げ廻るのだった。その興味あるレヴェズの解釈には、法水も率直に頷《うなず》いたけれども、彼はしだいに言葉の調子を高めていった。
「ところがレヴェズさん、僕は遺言書と不可分の関係にある、もう一つの動機を発見したのでした。それは、算哲が残した禁制の一つ――恋愛の心理なのです」
「なに、恋愛……」レヴェズは微かに戦《おのの》いたけれども、「いや、いつもの貴方なら、それを恋愛的欲求《フェルリープト・ザイン・ヴォーレン》とでも云うところでしょうな」と相手を憎々しげに見据えて云い返すのだった。それに、法水は冷笑を泛《うか》べて、
「なるほど……。でも、貴方のように恋愛的欲求《フェルリープト・ザイン・ヴォーレン》などと云うと、ますますその一語に、刑法的意義が加わってくる訳ですな。しかし、僕はその前提として、一言、算哲の生存と地精《コボルト》との関係――に触れなければならないのです。いかにも、その魔法的効果に至っては、絶大なものに違いありますまい。ですがレヴェズさん、結局、僕はそれが比例《プロポーション》の問題ではないかと思うのですよ。貴方は、たぶんその符合を無限記号のように解釈して、永劫《えいごう》悪霊の棲む涙の谷――とくらいに、この事件を信じておられるでしょう。けれども、僕はそれとは反対に、すでに善良な護神《ゲニウス》――グレートヘンの手が、ファウスト博士に差し伸べられているのを知っているのです。では、何故かと云いますと、だいたいあの悪鬼の犠牲とならなかった人物が、もうあと何人残っていると思いますね。ですから、あれほどの知性と洞察力を具えている犯人なら、当然ここで、犯行の継続に危険を感じなければならぬ道理でしょう。いや、そればかりではないのですよ。もう犯人にとっては、この上屍体の数を重ねてゆかねばならぬ理由はないのです。つまり、クリヴォフ夫人の狙撃を最後にして、あの屍体蒐集癖が、綺麗《きれい》さっぱり消滅してしまったからなんですよ。さて、ここでレヴェズさん、僕の採集した心理標本を、一つお目にかけることにしましょう。つまり、法心理学者のハンス・リーヒェルなどは、動機の考察は射影的《プロジェクチヴ》に――と云いますけれども、しかし僕は、動機についてもあくまで測定的《メトリカル》です。そして、事件関係者全部の心像を、すでに隈《くま》なく探り尽したのでした。で、それによると、犯人の根本とする目的は、ただ一途、ダンネベルグ夫人にあったと云うことが出来ます。ですから、クリヴォフ夫人や易介《えきすけ》の事件は、動機を見当違いの遺産に向けさせようとしたり、あるいはまた、それを作虐的《ザディスティッシュ》に思わせんがためなのでした。勿論、伸子のごときは、最も陰険兇悪をきわめた、つまり、あの悪鬼特有の擾乱《じょうらん》策と云うのほかにないのですよ」と法水は始めて莨《たばこ》を取り出したが、声音に漲《みなぎ》っている悪魔的な響だけは、どうしても隠すことは出来なかった。続いて、彼は驚くべき結論を述べた。「ですから、それが、今日伸子に虹を送った心理であり、またそれ以前には、貴方とダンネベルグ夫人との秘密な恋愛関係なのでした」
 ああ、レヴェズとダンネベルグ夫人との関係――それは、よし神なりとも知る由はなかったであろう。まったくその瞬間、レヴェズは死人のように蒼《あお》ざめてしまった。咽喉《のど》が衝動的に痙攣《けいれん》したと見えて、声も容易に出ぬらしい。そして、頸筋《くびすじ》の靱帯《じんたい》を鞭繩のようにくねらせながら、まるで彫像のよう、あらぬ方を瞶《みつ》めているのだった。それが、実に長い沈黙だった。窓越しにハツラツと噴泉の迸《ほとばし》る音が聞え、その飛沫《しぶき》が、星を跨《また》いで薄白く光っているのだ。事実、最初は法水のよくやる手――と思い、十分警戒していたにもかかわらず、ついに意表に絶した彼の透視が、その墻《かき》を乗り越えてしまった。そうして、勝敗の機微を、この一挙に決定してしまったのだった。やがて、レヴェズは力なく顔を上げたが、それには、静かな諦《あきら》めの色が泛《うか》んでいた。
「法水さん、儂《わし》は元来非幻想的な動物です。しかし、だいたい貴方という方には、どうも遊戯的な衝動が多い。いかにも、虹を送ったことだけは肯定しましょう。しかし、儂は絶対に犯人ではない。ダンネベルグ夫人との関係などは、実に驚くべき誹謗《ひぼう》です」
「いや、御安心下さい。これが二時間前ならばともかく、現在では、あの禁制があってもすでに無効です。もう何人《なんぴと》といえども、貴方の持ち分相続を妨げることは不可能なのですから。それより問題と云うのは、あの虹と窓にあるのですが……」
 するとレヴェズは困憊《こんぱい》の中にも悲愁な表情を見せて云った。
「いかにも、あの当時伸子が窓際に見えたので、やはり武具室にいると思い、儂《わし》は虹を送りました。しかし、天空の虹は抛物線《パラボリック》、露滴の水は双曲線《ハイパーボリック》です。ですから、虹が楕円形《イリプティック》でない限り、伸子は儂《わし》の懐《ふところ》に飛び込んでは来ないのですよ」
「ですが、ここに奇妙な符合がありましてな。と云うのは、あの鬼箭《おにや》ですが、それがクリヴォフ夫人を吊し上げて突進し、さてそれから突き刺った場所と云えば、やはり、あの同じ門でした。つまり、貴方の虹もそこから入り込んでいった――鎧扉《よろいど》の棧だったのです。ねえレヴェズさん、因果応報の理というものは、あながち、復讐神《ネメシス》が定めた人間の運命にばかりではないのですからね」となんとはなしに不気味な口吻《こうふん》を洩らして、ジリジリ迫ってゆくと、いったんレヴェズは、総身を竦《すく》めて弱々しい嘆息を吐いた。が、すぐ反噬《はんぜい》的な態度に出た。
「ハハハハ、下らぬ放言はやめにして下さい。法水さん、儂《わし》ならあの三叉箭《ボール》が、裏庭の蔬菜園から放たれたのだと云いますがな。何故なら、今は蕪菁《かぶら》の真盛《まっさか》りですよ。矢筈《やはず》は蕪菁、矢柄《やがら》は葭《よし》――という鄙歌《ひなうた》を、たぶん貴方は御存じでしょうが」
「さよう、この事件でもそうです。蕪菁は犯罪現象、葭は動機なのです。レヴェズさん、その二つを兼ね具えたものと云えば、まず貴方以外にはないのですよ」とにわかに酷烈な調子となって、法水の全身が、メラメラ立ち上る焔のようなものに包まれてしまった。「勿論ダンネベルグ夫人は他界の人ですし、伸子もそれを口に出す道理はありません。しかし、事件の最初の夜、伸子が花瓶を壊した際に、たしか貴方はあの室《へや》にお出でになりましたね」
 レヴェズは思わず愕然《がくっ》として、肱掛を握った片手が怪しくも慄《ふる》え出した。
「それでは、儂《わし》が伸子に愛を求めたのを発見されたために、持分を失うまいとして、グレーテさんを殺したのだ――と。莫迦《ばか》な、それは貴方《あんた》の自分勝手な好尚《このみ》だ。貴方は、歪んだ空想のために、常軌を逸しとるのです」
「ところがレヴェズさん、その解式と云うのは、貴方が再三|打衝《ぶつか》って御存じのはずですがね。|そこにあるは薔薇なりその辺りに鳥の声は絶えて響かず《ドッホ・ローゼン・ジンテス・ウォバイ・カイン・リード・メール・フレーテット》――つまり、レナウの『|秋の心《ヘルプストゲフュール》』の一節なんですから」と法水は、静かな洗煉された調子で、彼の実証法を述べるのだった。
「ところで、今となれば御気づきでしょうが、僕は事件の関係者を映す心像鏡として、実は詩を用いました。そして、数多《おおく》の象徴を打《ぶ》ち撒《ま》けておいたのです。つまり、それに合した符号なり照応なりを、徴候的に解釈して、それで心の奥底を知ろうとしました。さて、あのレナウの詩ですが、それを用いて、僕が一種の読心術に成功したのです。と云うのは、心理学上の術語で聯想分析と云って、それを、ライヘルト等の新派法心理者達は、予審判事の訊問中にも用いよ――と勧告しているのです。何故なら、ここに次のような、ミュンスターベルヒの心理実験があるからで……。最初|喧騒《テューマルト》(Tumult)と書いた紙を被験者に示して、その直後、鉄路(Railroad《レイルロード》)と耳元で囁《ささや》くと、その紙片の文字のことを、被験者は隧道《タンネル》と答えたと云うのですよ。つまり、吾々《われわれ》の聯想中に、他から有機的な力が働くと、そこに一種の錯覚が起らねばならないからです。けれども僕は、それに独自の解釈を加えて、その公式――つまり、Tumult《テューマルト》 |+《プラス》 Railroad《レイルロード》 |=《イコール》 Tunnel《タンネル》 を逆に応用して、まず1を相手の心像とし、その未知数を2と3とで描破しようと企てたのでした。そこでまず、|そこにあるは薔薇なり《ドッホ・ローゼン・ジンテス》――と云った後で、貴方の述べる一句一句を検討してみました。すると、貴方は僕の顔色を窺《うかが》うような態度になって、では薔薇乳香《ローゼン・ヴァイラウフ》を焚《た》いたのでは――と云われましたね。僕はそこで、ズキンと神経に衝《つ》き上げてくるものを感じたのです。何故なら、公教《カトリック》でも猶太《ユダヤ》教でも、乳香にはボスウェリア種とテュリフェラの二種しかないからで、勿論混種の香料は宗儀上許されていないからです。つまり、薔薇乳香《ローゼン・ヴァイラウフ》という一言は、貴方の心中、奥深くに潜んでいるものがあって、その有機的な影響に、違いないと結論するに至りました。明らかにその一語は、何か一つの真実
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