ノ視線を落した。そこには、彼が入りしなすでに発見したことであったが、扉から三尺ほど離れている所に、木理《もくめ》の剥離片《ささくれ》が突き出ていて、それに、黝《くろ》ずんだ衣服の繊維らしいものが引っ掛っていたからだ。ところで読者諸君は、ダンネベルグの着衣の右肩に、一個所|鉤裂《かぎざ》きがあったのを記憶されるだろうが、それにはまた、容易に解き得ない疑義が潜んでいるのだった。何故なら、常態の様々に想像される姿勢で入ったものなら、当然三尺の距離を横に動いて、その剥離片《ささくれ》に右肩を触れる道理がないからである。
 それから法水は、暗い静かな廊下を一人で歩いて行った。その中途で、彼は立ち止って窓を明け、外気の中へ大きく呼吸《いき》を吐いた。それは、非常に深みのある静観だった。空のどこかに月があると見えて、薄っすらした光が、展望塔や城壁や、それを繁り覆うているかのように見える、闊葉樹の樹々に降り注ぎ、まるで眼前一帯が海の底のように蒼《あお》く淀んでいる。また、その大観を夜風が掃いて、それを波のように、南の方へ拡げてゆくのだった。そのうち、法水の脳裡にふと閃《ひらめ》いたものがあって、その観念がしだいに大きく成長していった。そして、彼は依然その場を離れないで、しかも、触れる吐息さえ怖れるもののように、じいっと耳を凝《こ》らしはじめたのだった。すると、それから十数分経って、どこからかコトリコトリと歩む跫音《あしおと》が響いてきて、それがしだいに、耳元から遠ざかっていくように離れていくと、法水の身体がようやく動きはじめ、彼は二度伸子の室に入っていった。そして、そこに二、三分いたかと思うと、再び廊下に現われて、今度は、その背面に当るレヴェズの室の前に立った。しかし、法水が扉《ドア》の把手《ノッブ》を引いた時に、はたして彼の推測が適中していたのを知った。何故なら、その瞬間、あの憂鬱な厭世家めいたレヴェズの視線――それには異様な情熱が罩《こ》もり、まるで野獣のように、荒々しい吐息を吐いて迫ってくるのに打衝《ぶつか》ったからである。
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[#ページの左右中央]
  第七篇 法水は遂に逸せり※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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    一、シャビエル上人の手が……

 故意に、法水《のりみず》が音を押えて、扉《ドア》を開いた時だった。その時レヴェズは、煖炉の袖にある睡椅子《ねむりいす》に腰を下していて、顔を両膝の間に落し、その顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を両の拳《こぶし》で犇《ひし》と押えていた。そのグローマン風に分けた長い銀色をした頭髪《かみのけ》の下には、狂暴な光に燃えて紅い※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]《おき》を凝然《じいっ》と瞶《みつ》めている二つの眼があった。いつもなら、あの憂鬱な厭世家めいたレヴェズ――いまその全身を、かつて見るを得なかった激情的なものが覆い包んでいる。彼は絶えず、小びんの毛を掻き毟《むし》っては荒い吐息をつき、また、それにつれて刻み畳まれた皺《しわ》が、ひくひくと顔一面に引っ痙《つ》れくねってゆくのだった。その妖怪めいた醜さ――とうていそのような頭蓋骨の下には、平静とか調和とか云うものが、存し得よう道理はないのである。たしか、レヴェズの心中には、何か一つの狂的な憑着《ひょうちゃく》があるに相違ない。そして、それがこの中老紳士を、さながら獣のように喘《あえ》ぎ狂わせているらしく思われるのだった。
 しかし、法水を見ると、その眼から懊悩《おうのう》の影が消えて、レヴェズは朦朧《もうろう》と山のように立ち上った。その変化《うつりかわり》には、まるで、別個のレヴェズが現われたのではないか――と思われたほどに鮮かなものがあった。また、態度にも意外とか嫌悪とか云うものがなくて、相変らず白っぽい霞《かすみ》のかかったような、それでいて、その顔の見えない方の側には、悪狡《わるがしこ》い片眼でも動いていそうな……という、いつも見る茫漠《ぼうばく》とした薄気味悪さで、またそれには、法水の無作法を責めるような、峻厳な素振もないのであった。まったく、レヴェズの異風な性格には、文字どおりの怪物という以外に評し得ようもないであろう。
 その室《へや》は、雷文様の浮彫にモスク風を加味した|面取作り《ラスチック・スタイル》で、三つ並びの角張った稜《りょう》が、壁から天井まで並行な襞《ひだ》をなし、その多くの襞が格子を組んでいる天井の中央からは、十三燭形の古風な装飾灯《シャンデリヤ》が下っていた。そして、妙に妖怪めいた黄色っぽい光が、そこから床の調度類に降り注がれているのだった。法水は叩《ノック》しなかったことを鄭重《ていちょう》に詫びてから、レヴェズと向き合わせの長椅子に腰を下した。すると、まずレヴェズの方で、老獪《ろうかい》そうな空咳《からせき》を一つしてから切り出した。
「時に、先刻遺言書を開封なさったそうですな。すると、この室《へや》にお出でになったのも、儂《わし》にその内容を講釈なさろうというおつもりで。ハハハハ、だが法水さん、たしかあれは莫迦《ばか》げた遊戯《ゲーム》のはずで、いや今ですからお話しますがね。実を云いますと、開封すなわち遺言の実行なのです。つまり、あれには期限の到来を示す意味しかなくて、しかも、その内容は即刻実行されねばならんのですよ」
「なるほど……。いかにもあのままでは、偏見はおろか、錯覚さえも起す余地はありますまい。だが、しかしレヴェズさん、とうとうあの遺言書以外に、僕は動機の深淵を探り当てましたよ」と法水は、微笑の中に妙に棘々《とげとげ》しいものを隠して、相手に向けた。「ところで、それについて、ぜひにも貴方の御助力が必要になりましてな。実を云うと、その底深い淵の中から、奇異《ふしぎ》な童謡が響いてくるのを聴いたのでしたよ。ああ、あの童謡――それは事実僕の幻聴ではなかったのです。勿論、それ自らはすこぶる非論理的なもので、けっして単独では測定を許されません。しかし、その射影を追うて観察してゆくうちに、偶然その中から、一つの定数が発見されたのでした。つまりレヴェズさん、その値《ヴァリュー》を、貴方に決定して頂きたいと思うのですが……」
「なに、奇異《ふしぎ》な童謡を※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」といったんは吃驚《びっくり》して、煖炉の※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]《おき》から法水の顔に視線を跳ね上げたが、「ああ、判りましたとも法水さん、とにかく、見え透いた芝居だけは、やめにしてもらいますかな。なんで、貴方のような兇猛無比――まるでケックスホルム擲弾《てきだん》兵みたいな方が。唱《うた》うに事欠いて惨めな牧歌《マドリガーレ》とは……。ハハハハ、無双の人よ! 冀《こいねがわ》くは、威風堂々《マエステヴォルメンテ》とあれ!」と相手の策謀を見透かして、レヴェズは痛烈な皮肉を放った。そして、早くも警戒の墻壁《しょうへき》を築いてしまったのである。しかし、法水は微動もせぬ白々しさで、いよいよ冷静の度を深めていった。
「なるほど、僕の弾き出しが、幾分|表情的《エスプレッシヴォ》に過ぎたかもしれません。しかし、こう云うと、あるいは僕の浅学をお嗤《わら》いになるでしょうが、事実僕は、未だもって『Discorsi《ディスコルシ》』([#ここから割り注]十六世紀の前半フィレンツェの外交家マキァヴェリ著「陰謀史」[#ここで割り注終わり])さえも読んでいないのですよ、ですから、御覧のとおりの開けっ放しで、勿論|陥穽《わな》も計謀《たくらみ》もありっこないのです。いや、いっそこの際、事件の帰趨をお話して、御存じのない部分までお耳に入れましょう。そして、その上で、さらに御同意を得るとしますかな」と肱《ひじ》を膝の上でずらし、相手を見据えたまま法水は上体を傾《かし》げた。
「で、それと云うのは、この事件の動機に、三つの潮流があるということなのです」
「なんですと、動機に三つの潮流が……。いや、たしかそれは一つのはずです。法水さん、貴方《あんた》は津多子を――遺産の配分に洩れた一人をお忘れかな」
「いや、それはともかくとして、まずお聴き願いましょう」と法水は相手を制して、最初ディグスビイを挙げた。そして十二宮秘密記法の解読にはじめてホルバインの『|死の舞踏《トーテン・タンツ》』を語り、それに記されている呪詛《じゅそ》の意志を述べてから、「つまり、その問題は四十余年の昔、かつて算哲《さんてつ》が外遊した当時の秘事だったのです。それによると、算哲・ディグスビイ・テレーズと――この三人の間に、狂わしい三角恋愛関係のあった事が明らかになります。そして、恐らくその結果、ディグスビイは猶太《ユダヤ》人であるがために敗北したのでしょう。しかし、その後になって、ディグスビイに思いがけない機会が訪れたと云うのは、つまり黒死館の建設なのですよ。ねえレヴェズさん、いったいディグスビイは、敗北に酬ゆるに何をもってしたことでしょうか。その毒念|一途《いちず》の、酷烈をきわめた意志が形となったものは……。ですから、そうなって、さしずめ想い起されてくるのが、過去三変死事件の内容でしょう。そのいずれもに動機の不明だった点が、実に異様な示唆《しさ》を起してくるのです。また、建設後五年目には、算哲が内部を改修しています。恐らくそれと云うのも、ディグスビイの報復を、惧《おそ》れた上での処置ではなかったのでしょうか。しかし、何より駭《おどろ》かされるのは、ディグスビイが四十余年後の今日を予言していて、あの奇文の中に、人形の出現が記されていることなのです。ああ、あのディグスビイの毒念が、未だ黒死館のどこかに残されているような気がしてならないじゃありませんか。しかも、確かそれは、人智を超絶した不思議な化体《けたい》に相違ないのです。いや、僕はもっと極言しましょう。蘭貢《ラングーン》で投身したというディグスビイの終焉《しゅうえん》にも、その真否を吟味せねばならぬ必要がある――と」
「ふむ、ディグスビイ……。あの方が事実もし生きておられるなら、ちょうど今年で八十になったはずです。しかし法水さん、貴方が童謡と云われたのは、つまりそれだけの事ですかな」とレヴェズは依然嘲侮的な態度を変えないのだった。しかし、法水は関《かま》わずに、冷然と次の項目に移った。
「云うまでもなく、ディグスビイの無稽《むけい》な妄想と僕の杞憂《きゆう》とが、偶然一致したのかもしれません。しかし、次の算哲の件《くだ》りになると、まず誰しも思い過しとは思わないものが、実に異様な生気を帯びてくるのですよ。勿論、算哲が遺産の配分について採《と》った処置は、明白な動機の一つです。また、それには、旗太郎以下津多子に至る五人の一族が、各自各様の理由でもって包含されているのです。しかし、それ以外もう一つの不審と云うのは、ほかでもない遺言書にある制裁の条項でして、それが、実行上ほとんど不可能だと思われるからです。ねえレヴェズさん、仮令《たとえ》ば恋愛というような心的なものは、それをどうして立証するのでしょうね。ですから、そこに算哲の不可解な意志が窺《うかが》えるように思われて、つまり僕にとれば、開封がもたらした新しい疑惑と云っても差支えないのですよ。しかも、それは単独に切り離されているものではなくて、どうやら一縷《いちる》の脈絡が……。別に僕が、内在的動因と呼んでいるのがあって、その二点の間を通《かよ》っているものがあると思われるのです。そこでレヴェズさん、僕は思いきって露骨《あけすけ》に云いますがね。何故、貴方がた四人の生地と身分とが、公録のものと異なっているのでしょうか。で、その一例を挙げればクリヴォフ夫人ですが、表面あの方は、カウカサス区地主の五女であると云われている。しかし、その実|猶太《ユダヤ》人ではないでしょうか」
「ウーム、いったいそれを、どうして知られたのです」とレヴェズは、思わず眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》
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