おりますので、熱があるのかと訊ねましたら、熱だって出ずにはいないだろうと云って、私の手を持って自分の額に当てがうのです。まず八度くらいはあったろうと思われました。それから、とぼとぼ広間《サロン》の方へ歩いて行ったのを覚えております。とにかく、あの男の顔を見たのは、それが最後でございました」
「すると、それから君は、易介が具足の中に入るのを見たのかね」
「いいえ、ここにある全部の吊具足が、グラグラ動いておりましたので……たぶんそれが、一時を少し廻った頃だったと思いますが、御覧のとおり円廊の方の扉が閉っていて、内部は真暗でございました。ところが金具の動く微かな光が、眼に入りましたのです。それで、一つ一つ具足を調べておりますうちに、偶然この萌黄匂の射籠罩《いごて》の蔭で、あの男の掌《てのひら》を掴んでしまったのです。咄嗟《とっさ》に私は、ハハアこれは易介だなと悟りました。だいたいあんな小男でなければ、誰が具足の中へ身体《からだ》を隠せるものですか。ですからその時、オイ易介さんと声を掛けましたが、返事もいたしませんでした。しかし、その手は非常に熱ばんでおりまして、四十度は確かにあったろうと思われました」
「ああ、一時過ぎてもまだ生きていたのだろうか」と検事が思わず嘆声をあげると、
「さようでございます。ところが、また妙なんでございます」と庄十郎は何事かを仄めかしつつ続けた。「その次はちょうど二時のことで、最初の鐘鳴器《カリルロン》が鳴っていた時でございましたが、田郷さんを寝台に臥《ね》かしてから、医者に電話を掛けに行く途中でございました。もう一度この具足の側に来てみますと、その時は易介さんの妙な呼吸使いが聞えたのです[#「その時は易介さんの妙な呼吸使いが聞えたのです」に傍点]。私はなんだか薄気味悪くなってきたので、すぐに拱廊《そでろうか》を出て、刑事さんに電話の返事を伝えてから、戻りがけにまた、今度は思いきって掌《てのひら》に触れてみました。すると、わずか十分ほどの間になんとしたことでしょう。その手はまるで氷のようになっていて、呼吸《いき》もすっかり絶えておりました。私は仰天して逃げ出したのでございます」
 検事も熊城も、もはや言葉を発する気力は失せたらしい。こうして庄十郎の陳述によって、さしも法医学の高塔が、無残な崩壊を演じてしまったばかりでない。円廊に開いている扉の閉鎖が、一時少し過ぎだとすると、法水の緩窒息説も根柢から覆《くつがえ》されねばならなかった。易介の高熱を知った時刻一つでさえ、推定時間に疑惑を生むにもかかわらず、一時間という開きはとうてい致命的だった。のみならず、庄十郎の挙げた実証によって解釈すると、易介はわずか十分ばかりの間に、ある不可解な方法によって窒息させられ、なおその後に咽喉《のど》を切られたと見なければならない。その名状し難い混乱の中で、法水のみは鉄のような落着きを見せていた。
「二時と云えば、その時|鐘鳴器《カリリヨン》で経文歌《モテット》が奏でられていた……。すると、それから讃詠《アンセム》が鳴るまでに三十分ばかりの間があるのだから、前後の聯関には配列的に隙がない。事によると鐘楼へ行ったら、たぶん易介の死因について、何か判ってくるかもしれないよ」と独白じみた調子で呟《つぶや》いてから、「ところで、易介には甲冑の知識があるだろうか」
「ハイ、手入れは全部この男がやっておりまして、時折具足の知識を自慢げに振り廻すことがございますので」
 庄十郎を去らせると、検事はそれを待っていたように云った。
「ちと奇抜な想像かもしれないがね。易介は自殺で、この創《きず》は犯人が後で附けたのではないだろうか」
「そうなるかねえ」と法水は呆れ顔で、「すると、事によったら吊具足は、一人で着られるかもしれないが、だいたい兜の忍緒《しのびお》を締めたのは誰だね。その証拠には、他のものと比較して見給え。全部正式な結法で、三乳《みつぢ》から五乳《いつぢ》までの表裏二様――つまり六とおりの古式によっている。ところが、この鍬形五枚立の兜のみは、甲冑に通暁している易介とは思われぬほど作法はずれなんだ。僕がいま、この事を庄十郎に訊ねたと云うのも、理由はやはり君と同じところにあったのだよ」
「だが男結びじゃないか」と熊城が気負った声を出すと、
「なんだ、セキストン・ブレークみたいなことを云うじゃないか」と法水は軽蔑的な視線を向けて、「たとえ男結びだろうと、男が履《は》いた女の靴跡があろうとどうだろうと……、そんなものが、この底知れない事件で何の役に立つもんか。これはみな、犯人の道程標《みちしるべ》にすぎないんだよ」と云ってから懶気《ものうげ》な声で、
「易介は挾まれて殺さるべし――」と呟いた。
 黙示図において、易介の屍様を預言しているその一句は、誰の脳裡にもあることだったけれども、妙に口にするのを阻《はば》むような力を持っていた。続いて、引き摺られたように検事も復誦したのだったが、その声がまた、この沼水のような空気を、いやが上にも陰気なものにしてしまった。
「ああ、そうなんだ支倉君、それが兜と幌骨――なんだよ」と法水は冷静そのもののように、「だから、一見したところでは、法医学の化物みたいでも、この死体に焦点が二つあろうとは思われんじゃないか。むしろ、本質的な謎というのは、易介がこの中へ、自分の意志で入ったものかどうかということと、どうして甲冑を着たか……つまり、この具足の中に入る前後の事情と、それから、犯人が殺害を必要としたところの動機なんだ。無論僕等に対する挑戦の意味もあるだろうが」
「莫迦《ばか》な」熊城は憤懣《ふんまん》の気を罩《こ》めて叫んだ。「口を塞《ふさ》ぐよりも針を立てよ――じゃないか。見え透いた犯人の自衛策なんだ。易介が共犯者であるということは、もうすでに決定的だよ。これがダンネベルグ事件の結論なんだ」
「どうして、ハプスブルグ家の宮廷陰謀じゃあるまいし」と法水は再び、直観的な捜査局長を嘲った。
「共犯者を使って毒殺を企てるような犯人なら[#「共犯者を使って毒殺を企てるような犯人なら」に傍点]、既《とう》に今頃、君は調書の口述をしていられるぜ」
 それから廊下の方へ歩み出しながら、
「さて、これから鐘楼で、僕の紛当《まぐれあた》りを見ることにしよう」
 そこへ、硝子の破片がある附近の調査を終って、私服の一人が見取図を持って来たが、法水は、その図で何やら包んであるらしい硬い手触りに触れたのみで、すぐ衣嚢《ポケット》に収め鐘楼に赴《おもむ》いた。二段に屈折した階段を上りきると、そこはほぼ半円になった鍵形の廊下になっていて、中央と左右に三つの扉があった。熊城も検事も悲壮に緊張していて、罠《わな》の奥にうずくまっているかもしれない、異形《いぎょう》な超人の姿を想像しては息を窒《つ》めた。ところが、やがて右端の扉が開かれると、熊城は何を見たのか、ドドドッと右手に走り寄った。壁際にある鐘鳴器《カリリヨン》の鐘盤の前では、はたせるかな紙谷伸子が倒れていたのだ。それが、演奏椅子に腰から下だけを残して、そのままの姿で仰向けとなり、右手にしっかりと鎧通《よろいどお》しを握っているのだった。
「ああ、こいつが」と熊城は何もかも夢中になって、伸子の肩口を踏み躙《にじ》ったが、その時法水が中央の扉を、ほとんど放心の態で眺めているのに気がついた。卵色の塗料の中から、ポッカリ四角な白いものが浮き出ていた。近寄ってみると、検事も熊城も思わず身体が竦《すく》んでしまった。その紙片には……
 Sylphus《ジルフス》 Verschwinden《フェルシュヴィンデン》(風精《ジルフス》よ消え失せよ)
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  第三篇 黒死館精神病理学
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    一、風精《ジルフス》……異名《エーリアス》は?

Sylphus《ジルフス》 Verschwinden《フェルシュヴィンデン》(風精《ジルフス》よ。消え失せよ)
 鐘鳴器《カリリヨン》室に三つあるうちの、中央の扉高くに、彼等の凝視を嘲り返すかのごとく白々しい色で、再びファウストの五芒星呪文の一句が貼り附けられてあった。のみならず、Sylphe《ジルフェ》 の女性をそれにもまた男性化しているばかりでなく、再び古|愛蘭《アイリッシュ》のような角張ったゴソニック文字で、それには筆者の性別は愚かなこと毛のような髯線《ぜんせん》一筋にさえ、筆蹟の特徴を窺うことは許されなかったのである。あの緊密な包囲形をどう潜り抜けたものか、また伸子が犯人で、法水《のりみず》の機智から発した包囲を悟り、絶体絶命の措置《そち》に出たものであろうか……。いずれにしろここで、皮肉な倍音演奏をした悪魔を決定しなければならなかった。
「これは意外だ。失神じゃないか」伸子の全身をスラスラ事務的に調べ終ると、法水は熊城《くましろ》の靴をジロリと見て、「微かだが心動が聞えるし、呼吸も浅いながら続けている。それに、このとおり瞳孔反応もしっかりしてるぜ」
 そう法水に宣告されてしまうと、つい今しがた此奴《こやつ》とばかりに肩口を踏み躙《にじ》った熊城でさえ、そろそろ自分の軽挙が悔まれてきた。と云うのは、勿論|鎧通《よろいどお》しを握って、|此の人を見よ《エッケ・ホモ》――とばかりにのけ反りかえっている、紙谷伸子《かみたにのぶこ》の姿体だったのである。それまでは、幽鬼の不敵な暗躍につれて、おどろと跳ね狂う、無数の波頭を見るのみであって、事件の表面には人影一つ差してこなかった。そこへ、一条の泡がスウッと立ち上っていったのだが、それが水面で砕けたと思えば、突忽《とっこつ》として現われたのは何あろう、現在|眼《ま》のあたり見る鬼蓮《おにばす》なのである。それであるからして、熊城でさえも一時の亢奮《こうふん》が冷《さ》めるにつれて、いろいろと疑心暗鬼的な警戒を始めたのも無理ではなかった。まったく、意表を絶したこの体態《ていたらく》を見ては、かえって反対の見解が有力になってゆくではないか。易介の咽喉を抉《えぐ》ったと目されている短剣を握り締めて、伸子はこれをとばかりに示しているけれども、一方それ以上厳密に、失神するまでの経路が吟味されねばならない。結論はその一つだった。王妃ブズールが唱えば、雨となって降り下って来る――黒人《ニグロ》の penis に、とうとうこの事件の倒錯性が狂い着いてしまったのである。
 さてここで、鐘鳴器《カリリヨン》室の概景を説明しておく必要があると思う。前篇にも述べたとおり、その室は礼拝堂の円蓋《ドーム》に接していて、振鐘《ピール》のある尖塔の最下部に当っていた。そして、階段を上《あが》りきった所は、ほぼ半円をなした鍵形の廊下になっていて、中央――すなわち半円の頂天とその左右に三つの扉があり、なお、室内に入ってから気づいたことであったが、当時左端の一つのみが開かれていた。そこ一帯の壁面を室内から見ると、それが、音響学的に設計されているのが判る。一口に云えば巨《おお》きな帆立貝であって、凹状の楕円と云ったら当るかもしれない。たぶんここに鐘鳴器《カリリヨン》を具えるまでは、四重奏団《クワルテット》の演奏室に当てられていたのであろうが、したがって中央の扉にも、外観上位置的に不自然であるばかりでなく、後から壁を切って作られたらしい形跡が残っていた。またその一つのみが素晴らしく大きなもので、ほとんど三メートルを越すかと思われるほどの高さだった。そこから、向う側の壁までの間は、空《がら》んとした側柏《てがしわ》の板張りだった。そして、鐘鳴器《カリリヨン》の鍵盤は、壁を刳形《くりがた》に切り抜いて、その中に収められてある。三十三個の鐘群はそれぞれの音階に調律されていて、すぐ直前の天井に吊されているが、それが鍵盤《キイ》と蹈板《ペダル》とによって……その昔カルヴィンが好んで耳を傾け、またネーデルランドの運河の水に乗ると、風車が独りでに動くとか伝えられる、あの物寂びた僧院的な音を発する仕掛になっていた。しか
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