「冗談じゃないぜ」と熊城は思わず呆れ顔になって、「これが即死でないのなら、一つ君の説明を承《うけたまわ》ろうじゃないか」といきり立つのを、法水は駄々児を諭すような調子で、
「ウン、この事件の犯人たるや、いかにも神速陰険で、兇悪きわまりない。しかし、僕の云う理由はすこぶる簡単なんだ。だいたい君が、強度の青酸《シヤン》中毒というものをあまり誇張して考えているからだよ。呼吸筋は恐らく瞬間に痳痺[#「痳痺」はママ]してしまうだろうが、心臓が全く停止してしまうまでには、少なくとも、それから二分足らずの時間はあると見て差支えない。ところが、皮膚の表面に現われる死体現象と云うのは、心臓の機能が衰えると同時に現われるものなんだがね」そこでちょっと言葉を切って、まじまじと相手を瞶《みつ》めていたが、「それが判れば、僕の説に恐らく異議はないと思うね。ところで、この創《きず》は巧妙に表皮のみを切り割っている。それは、血清だけが滲み出ているのを見ても、明白な事実なんだが、通例生体にされた場合だと、皮下に溢血《いっけつ》が起って創の両側が腫起してこなければならない――いかにも、この創口にはその歴然としたもの
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