Aそれを聴いた刹那《せつな》検事と熊城には、いったんは理法と真性のすべてが、蜻蛉《とんぼ》返りを打ってケシ飛んでしまったように、思われたけれども、少し落ち着いてくると、それにはむしろ、真面目《まじめ》な反論を出すのが莫迦《ばか》らしくなったくらい、不思議なほど冷静な、反響一つ戻ってゆかないという静けさだった。第一、それを否定する厳然たる事実の一つと云うのは、伸子は既《とう》に五人目の人身御供《ひとみごくう》に上っていて、その歴然たる他殺の証跡が、法水の署名を伴って検死報告書に記されているのだ。それから家族以外の彼女には、動機と目すべきものが何一つなく、しかも法水の同情と庇護《ひご》を一身に集めていた伸子が、どうして犯人だったと信ぜられようか。それゆえ熊城には、それがえてして頭を痛めているものの罹《かか》りやすい、或る病的な傾向と見て取ったのも無理ではなかった。
「まるで、気が遠くなりそうな話じゃないか。それとも、真実君が正気でいるのなら、たった一つでも、僕はそれに刑法的価値を要求するよ。まずなにより、伸子の死を自殺に移すことだ」
「ところが熊城君、今度は、|毛ほど《ラナ・カプリナ》のもの――と云うが扉《ドア》の羽目《パネル》にあって、それを君に、実際証拠として提供しよう」と法水は、相手の無反響を嘲り返すように、力を罩《こ》めて云った。
「ところで、例《ため》しに、こういう場合を考えて見給え。あらかじめ、針に竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》の繊維を結び付けて、一方の扉《ドア》に軽く突き立てておき、その一端を鍵穴の中に差し入れて、そこへ水を注ぎ込む。すると、当然あの繊維が収縮を始めて、扉の開きがしだいに狭められてゆくだろう。その時、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を射った拳銃が、手許から投げ出されて、そうした機《はず》みに、二つの扉《ドア》の間へ落ちたのだ。そうして、何分か後に扉《ドア》が鎖されると、前もって立てておいた掛金が、パッタリと落ちる。いや、それよりも扉《ドア》の動きが、拳銃を廊下へ押し出してしまうじゃないか。勿論|竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》の繊維は、針を引き抜いて、それごと鍵穴の中に没していったのだ」と言葉を切って、長く深く、慄《ふる》えがちな息を吸い込んだ。そして、真黒な秘密の重荷とともに、再び吐き出された。
「ところが熊城君、そうして他殺から自殺に移されるということになると、そこに、どんな光によっても見ることの出来ない、伸子の告白文が現われてくるのだ。それは気紛《きまぐ》れな妖精めいた、豊麗《ほうれい》な逸楽的な、しかも、ある驚くべき霊智を持った人間以外は、とうていその不思議な感性に触れることが出来ないのだ。伸子は、あの陳腐《ちんぷ》きわまる手法に、一つの新しい生命を吹き込んだ……」
「なに、告白文※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と検事は、脳天まで痺《しび》れきったような顔をして、莨《たばこ》を口から放し、ぼんやりと法水の顔を見詰めている。
「うん、焔の弁舌だよ。しかも、その焔はけっして見ることは出来ないのだ。しかも、ファウスト博士の最後の儀礼《パンチリオ》で、それは一種の秘密表示《サイファリング・エキスプレッション》なんだ。ねえ支倉君、例えば、髪・耳・唇・耳・鼻――と順々に押えてゆくと、それが Hair《ヘーア》. Ear《イーア》. Lips《リップス》. Ear《イーア》. Nose《ノーズ》 で、結局 Helen《ヘレン》 となる――そういう、秘密表示《サイファリング・エキスプレッション》の一種を、伸子は、他殺から自殺に移ってゆく転機の中に、秘めておいたのだ。ところで、その最初は、屍体で描いたKの文字だが、それは伸子が自企的に起した、比斯呈利《ヒステリー》性痳痺[#「痳痺」はママ]の産物だったのだよ。その幾多の実例が、グーリュとブローの『人格の変換』の中にも記されているとおりで、ある種の比斯呈利《ヒステリー》病者になると、鋼鉄を身体に当てて、その反対側に痳痺[#「痳痺」はママ]を起すことが出来るのだ。つまり、左手を高く挙げて、一方の扉《ドア》の角に寄り掛っていた所へ、右頬へ拳銃を当てたのだから、当然左半身に強直が起るだろう。そして、そのまま発射とともに、床の上に倒れたので、垂直をなしている左半身が、例の薄気味悪いKの字を描かせてしまったのだ。しかし、勿論それは、|地精よいそしめ《コボルト・ジッヒ・ミューヘン》――の表象《シムボル》ではない。その二つの扉《ドア》を結んで、竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》の繊維が作った――その半円というのは、どう見てもU字形じゃないか。それから、扉《ドア》に押された拳銃が動いていった線が、あろうことかSの字を描いているんだ。ああ、地精《コボルト》
前へ 次へ
全175ページ中172ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング