フが、アレキサンドライトと紅玉《ルビー》との関係なんですよ。ねえ伸子さん、たしかあの時貴女は、拒絶の表象《シムボル》――紅玉《ルビー》をつけたのではありませんか」
「いいえ、けっして……」と伸子は法水を凝《じ》っと見詰め、声に力を罩《こ》めた。「その証拠には、演奏が始まる直前でしたけども、旗太郎様が私の髪飾りを御覧になって、いったいレヴェズ様のアレキサンドライトをどうして――とお訊ねになったのを憶えておりますわ」
 その伸子の一言は、依然レヴェズの自殺の謎を解き得なかったばかりではなく、さらに法水へ呵責《かしゃく》と慚愧《ざんき》を加え、彼の心の一隅に巣喰っている、永世《とこよ》の重荷をますます重からしめた。しかし法水は、ついにこの惨劇の神秘の帳《とばり》を開き、あれほど不可能視されていた、帝王切開術《カイゼル・シュニット》に成功した。すでに、その時は夜の刻みが尽きていて、胸の釦《ボタン》に角燈を吊した小男が、門衛小屋から出掛けてきた。一つ二つ鶫《つぐみ》が鳴きはじめ、やがて堡楼の彼方から、美しい歌心の湧き出ずにはいられない、曙《あけぼの》がせり上ってくるのであった。法水は伸子と窓際に立って、パノラマのような眺望を、恍惚《うっとり》と味わっているうちに、彼女の肩に手を置き、無量の意味と愛着とを罩《こ》めて云った。
「伸子さん、既《とう》に嵐と急迫の時代は去りましたよ。この館も再び旧《もと》のとおりに、絢爛《けんらん》たるラテン詩と恋歌《マドリガーレ》の世界に帰ることでしょう。ところで、ああして響尾《ガラガラ》蛇の牙《きば》は、すっかり抜いてしまったのですから、貴女は懼《おそ》れず僕に、例の約束を実行して下さるでしょうね。もう、何も終って、新しい世界が始まるのですよ。この神秘的な事件の閉幕を、僕はこういうケルネルの詩で飾りたいのですがね。色は黄なる秋、夜の灯《ともしび》を過ぎれば紅《あか》き春の花とならん――」
 ところが、その翌日の午後になると、伸子の打札《うちふだ》がヒュッと風を切って飛び来ると思いのほか、意外にも検事と熊城が訪れてきて、当の本人伸子が、拳銃で狙撃され即死を遂げたという旨を告げた。それを聴くと、事件を全然|放擲《ほうてき》しかねまじい失意を、法水が現わしたばかりでなく、せっかく見出した確証を掴もうとした矢先、その希望が全然截ち切られてしまって、もはやこの事件の刑法的解決は、永遠に望むべくもないのだった。それから三十分後に、法水は暗澹《あんたん》とした顔色を黒死館に現わした。そして、今や眼《ま》のあたり伸子の遺骸を見ると、事件の当初から、ファウスト博士の波濤《はとう》のような魔手に弄《もてあそ》ばれ続けて、とどのつまり生命の断崖から、突き落されたこの今様グレートヘンが……、なんとなく死因に対する、法水の道徳的責任を求めているように思われ、はてはそれが、とめどない慚愧《ざんき》と悔恨《かいこん》の情に変ってしまうのだった。ところが、現場伸子の室《へや》に一歩踏み入れると、そこには、鮮かにも残された犯人の最後の意志――Kobold《コボルト》 sich《ジッヒ》 muhen《ミューエン》(地精《コボルト》よいそしめ)が印されていた。
 しかもそれは、いつものような紙片にではなく、今度は、伸子の身体に印されていた。と云うのは、その――投げ出した、左手から左足までが一文字に垂直の線をなしていて、右手と右足とが、くの字形にはだけ、なんとなく全体の形が、Kobold《コボルト》 のKを髣髴《ほうふつ》とするもののように思われたからである。それが、扉《ドア》口から三尺ほど前方の所を足にして、斜右《はすみぎ》に仰向けとなって横たわり、しかもレヴェズやクリヴォフ夫人と同じよう、悲痛な表情をしていて、それにはいささかも恐怖の影はなかった。屍体には、右の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にひどい弾丸《たま》の跡が口を開いていて、敷物《カーペット》の上に、流れ出た血がベットリこびり付いているが、外出着を着て手袋までもつけたところを見ると、あるいは法水の許を訪れようとして、突然狙撃されたのではないかと思われた。なお、兇行に使用された拳銃は、扉《ドア》の外側――把手《ノッブ》の下に捨てられていて、その扉には、外から起倒|閂《かんぬき》が掛っていた。けれども、この局面には一つの薄気味悪い証言が伴っていて、それから陰々と蠢《うごめ》くような、ファウスト博士の衣摺《きぬず》れを聴く思いがするのだった。
 ――ちょうど二時頃銃声が轟《とどろ》いたので、館中がすくむような恐怖に鎖されてしまって、誰一人現場に馳《は》せつけようとするものはなかった。すると、それから十分ほど経つと、隣室で慄《ふる》えていたセレナ夫人の耳に、扉《ドア》
前へ 次へ
全175ページ中169ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング